森見ますお百貨店

もりブログ

狂ブログ

語尾をどうすればよいか分からない

ブログを始めて2週間がたちます。

 

ブログは案外楽しい

 

自分でもこんなに続くとは思いませんでした。

 

でも楽しい反面悩みもあって、今日はそれを書こうかなと思っています。

  

語尾をどうすればよいか分からない

 

語尾を「ですます調」にすべきか「である調」にすべきか、どっちがいいのかよくわかりません。

 

この記事は「ですます調」で書いていますが、特別な根拠はないです。

 

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

この記事は「である調」で書きました。

 

しかし、これといった理由は無く、なんとなく決めたものでした。

 

他の記事も同じです。語尾に関してはすべてなんとなく決めています

 

どちらにせよ明確な基準がない

 

願わくば、そこに明確な基準が欲しいのですが...そっちの方が将来性があるじゃないですか。

 

ところで、「ブログ 語尾」で調べると、多くの人が言及しています。

 

一説によれば、

 

ですます調は丁寧不快感を与えないが、読者との距離が遠く表現の幅が狭い

 

である調は表現の幅が広く書きやすいが、技術を要するほか不快感を与える場合がある

 

らしいです。

 

ハイブリッド型が良い

 

という人もいて様々です。

 

実際どうなのか

 

よくわからないので例文を考えてみました。

 

(1)「そうです。私は変なおじさんです。」

 

(2)「そうだ。私は変なおじさんだ。」

 

絶対に例文が悪いことはわかっています。

 

ですが(1)の方が圧倒的に気持ち悪いです。

 

妙に丁寧なのが気持ち悪いです。

 

近寄りたくない。そして寒気がします。

 

「ですます調は丁寧不快感を与えない」というのは本当なのか。この例の場合、むしろ不快です。

 

「読者との距離が遠く」というのはその通りだと思います。

 

その距離感が気持ち悪さを生み出していますから...

 

「表現の幅が狭い」というのは、こんな短文の例じゃわかりません。

 

あてはまるのもあれば、あてはまらないものもある

 

たぶん(2)についてもそんな感じではないでしょうか?

 

余りにも考察が適当過ぎるですって?

 

いいんです。面倒なんですもの。

(だからダメなんだが...)

 

結局

全然よくわからないというのが正直なところです。

 

僕にとって、ハイブリッド型というのが魅力的に映りました。

 

文章が単調にならないように適度に混ぜていくのが良いのかな、と。

 

余り語尾の統一感にとらわれない方が文章は流れていくと思います。

 

ただ、どこでどういう語尾を使うべきかは、もはや感性の世界のような気がします。

 

感性ってよくわかりませんね。

 

そして、結論の無い結末。とても歯切れが悪い。

 

今日のつまみは裂きイカにしましょうかね...

 

2017/6/1 森見ますお

2017/6/19 微修正

ディベートが苦手です

ディベートの力というのはどうやって伸ばすことができるのだろう?

 

現代を生きるなかで、どうしたらディベートを活用できるのだろう?

 

グローバル化が騒がれる時代、西欧が重視するディベートの力が日本人にも求められているらしい。

 

時代の潮流なのだろう。僕の通う大学でもディベートの授業が設けられた。

 

一方、僕は「ディベート」の「ディ」の字も分からない生粋の日本人である。

 

意見を戦わせる習慣などない。

 

だから、今その授業にずいぶん苦しんでいるのだ。

 

イヌが良いのかネコが良いのか

本当に辛かった。

 

初めての授業のことである。

 

とりあえず「ディベート」というものを体験してみよう! といった趣旨だった。

 

そこで出されたお題は

ペットとして買うならイヌとネコのどちらが良いか。ディベートせよ。

である。

 

そもそもの話だが、僕は動物を飼ったことがない。

 

だから、そもそも「イヌの良さ」や「ネコの良さ」について一切の知識がない。

 

せいぜい、「73%のネコはかわいい」とか「67%のイヌは怖い」といった漠然とした感想しか持っていない。

 

そんな状況で

 

イヌとネコについてディベートせよ

 

と言われても、どうしていいのか分からないのである。

 

困惑を隠しきれなかったが一応講師の話を聞いていた。

 

すると、何やらディベートの方法を説明し始めた。

 

どうやら、イヌとネコについて漠然と議論するわけでは無いようだ。

 

「イヌ派」か「ネコ派」か

 

まず各々が「イヌ派」と「ネコ派」に分かれるらしい。

 

そして、「イヌ派」の人間は鬼のように「イヌの良さ」を主張をし、「ネコ派」の人間は鬼のように「ネコの良さ」を主張しなければならない。

 

逆に「イヌ派」の人間は鬼のように「ネコ派」の意見を攻撃し、「ネコ派」の人間は鬼のように「イヌ派」の意見を攻撃しなければならない、ということだ。

 

なにがなんでも、どちらかに肩入れしなければならない。

 

これは辛い、と僕は思った。

 

僕は小学校の頃から「みんな違ってみんな良い」という教育を受けてきた。

 

当然、どんな動物を飼うかは人の好き好きである。

 

別に僕にとって、人がキリンを飼おうがワニを飼おうがライオンを飼おうが、なんでもよいのである。

 

意見をぶつける必要などないのではないか。

 

豊かなコミュニケーション

 

ワニを飼っている人に「ヘビの方がイイヨ!」と言っても、絶対に受け入れてもらえない。

 

むしろ、ワニを飼っている人に議論を吹っ掛けるのはもったいない。

 

ワニの良さ」について教えてくれ、という姿勢でお話しした方が100%楽しいはずだ。

 

そうすることで、相手も気を良くするし、今度は逆に「ヘビの良さって何ですか?」と聞いてくれるかもしれない。

 

そうやって話している間に、自分が「ワニの良さ」に気づいたり、相手が「ヘビの良さ」に気づいたり、知らない間にペットを交換しているかもしれない。

 

豊かなコミュニケーション。

 

きっとビジネスでも基本姿勢は同じはずだ。

 

大学生の分際でこれを言うと怒られてしまうかもしれないが、将来、目をギラギラさせて議論を吹っ掛けてくる人たちとのお取引はあまりしたくない。

 

お互いに良さを引き出す交渉をしたい。

 

 

 

 

少し、話に感情がこもってしまった。話をもどしたい。

 

ネコ派になった僕

僕は「ネコ派」に振り分けられた。

 

僕の意思ではないが、僕は「ネコ派」だ。

 

おお、俺は「ネコ派」だ。ネコ最高。ネコ以外は受け付けない!

 

そうして戦場に送り出された僕の相手は、見るからに利発ディベート経験がありそうな「イヌ派」の女子だった。

 

対戦開始。

 

イヌ派」が早速主張してきた。

 

「イヌはかわいいし、イヌは頭が良いからイヌの方が良い」

 

ふむふむ、ふむ、ふむぅ~?

 

反論

 

反論しなければならないのか?

 

反論

 

反論、はできない

 

まず、「イヌはかわいい」という命題だ。

 

イヌはかわいい」と主張する彼女は、本気で「イヌ」を「かわいい」と思っているに違いない。

 

僕のまわりでは「ネコの方がかわいい」という人が多いが、それは「イヌがかわいくない」ということを立証する十分な論拠にはならない

 

なぜならば、「かわいい」という指標があまりにも主観的だからだ。

 

よって、彼女に対して「それはおかしい。ネコの方がこうこうこういう理由でかわいい」

 

と主張することは、たとえディベートの場でもできない。

 

なぜならばそれは、彼女の「イヌはかわいい」と感じた感性を否定することになるからだ。

 

他人の主観的感性を否定することは人格否定に近いものがある。

 

だから反論することはできない...

 

そう思いながらも苦し紛れで意見を言った。

 

「『イヌはかわいい』という意見を反対するつもりは100%ないが、それはあまりにも主観的であり人によって異なるから、その意見は一般性に欠けるのではないか」

 

とりあえず、この件については何とかなった。

 

次は「イヌの方が頭が良い」という命題についてであるが、これに関しては僕に知識が無いため反論できない。

 

とりあえず理由を詳しく聞いてしのごうと思い、

 

「なぜ犬の方が頭が良いと思うのか?」

 

と聞いてみた。すると、、、

 

「イヌに『お手』とか『おすわり』とかを教えると覚えられるでしょう? だからイヌは頭が良いんだよ」

 

僕は答えた

 

 

「なるほど、イヌは頭が良い。」

 

 

講師が飛んできて、そして怒られた。

 

ディベートをせよ、と。

 

僕は純粋に相手の意見に納得し、同意したのだ。

 

なぜ怒られなければならないのだ。

 

意味が分からなかった。

 

その後も状況は変わらなかった。

 

僕は終始うなずき、相手の意見に納得し続けた。

 

僕がうなずくと、彼女も不満そうな顔をした。

 

「ちゃんとクリティサイズして!」

 

なぜ、なぜだ、僕はあなたに同意しているに、なぜ不機嫌になるのだ...

 

ディベートの意味とは

別にディベートを否定する気など全くない。

 

死刑制度に賛成か反対か。

 

大いにディベートした方が良い。

 

というか、ディベートというのはそういったシリアスな問題について理解を深めるには必要な手段だろう。

 

政治家の方や外交官の方などはこの力がものをいうと思う。

 

政治家や外交官でなくても、もちろん必要な場面はあるだろう。

 

しかし、この技術は乱用してもよいのだろうか?

 

家族で夕飯を何にするか議論するとき、ディベートの形式が最善だろうか?

 

お店で値切るとき、お店が値引きをするべき論拠をまくし立てるのが最善の方法だろうか?

 

イヌとネコの議論を例にとってみても、議題や状況によっては適切ではないのではないか?

 

良きディベートを教わりたい

教育の現場で、なんでもかんでもディベートディベートと騒ぎ立てるのは、あまりにもグローバル化の潮流に感化され過ぎであろう。

 

西欧ではディベートの文化が根付いているそうだが、本当に日常生活の中でイヌとネコの議論をディベート形式でおこなっているのだろうか。

 

はなはだ疑問である。

 

きっと西欧でもそういった議論には思いやりがあふれているに違いない。

 

ディベートには使い道がある。

 

国、企業、その他の様々な組織において、その前途のカギとなる議論。

 

これは、思いやりでは解決できない問題だろう。

 

議論する人たちが国のため会社のため組織のため本気で意見をぶつけ合うことで、良いものが生まれていくのである。

 

しかし、そのような「ディベートの大きな利点」は残念ながら教育の現場で理解することが難しくなっている。

 

日本人はディベートが苦手だ。それは悪いことだ。だからディベートを学ばないと国際化の中で置いていかれる

 

その通りだろう。

 

しかし、なんでもかんでもディベートだと押し付けることで、僕を始め多くの人に必要以上の反感を買っている。

 

ですからどうか、ディベートの本当の良さを教えてください。

 

2017/5/30 森見ますお

 

自動車免許の筆記試験で、答えに絶対納得できない問題があります

 

 ミニカーの荷台には、60kg以上の荷物を積んではならない。〇か×か。

 

自動車免許の試験問題だ。

 

すでに免許を持っている方や免許をとろうとしている方は知っているかもしれない。

 

教習所では「ミニカーの荷台には30㎏を超える荷物を積んではならない」と教わる。

 

15㎏はセーフであり、40㎏はアウトである。

 

とても明確だ。

 

さて、例の問題を考えてみる。

 

 ミニカーの荷台には、60kg以上の荷物を積んではならない。〇か×か。

 

当たり前だ。60㎏以上の荷物を積んだら違反である。

 

なぜならば30㎏以上は許されていないからだ。

 

答えは〇

 

自身がある。

 

天地天命に誓っても〇である。

 

答えを見た。

 

 

えぇぇ、、、

 

 

×と書いてあるのだ。

 

 

意味が分からない。解説を読んだ。

 

解説にはこう書いてあった。

 

ミニカーの荷台には30㎏をこえる荷物を積んではならない。したがって問題文は誤り。

 

えぇぇ、、、

 

僕は「ミニカーは30㎏を超える荷物を積んではならないから60㎏を超える荷物を積むのは当然ダメ」と考えた。

 

しかし、解説は「ミニカーは30㎏を超える荷物を積んではならないから、60㎏を超える荷物を積むのは違う」としている。

 

「ミニカー 積載」で検索!

こんな時はGoogle先生である。

 

題のようなキーワードで調べた。

 

Yahoo! 知恵袋がヒットした。

 

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

質問者と回答者の主張をここに引用する。

 

質問者の主張

 

「ミニカーの荷台には、60キログラムを超える荷物を積んではならない。」

この答えは×なのですが、○でも間違いではない気がします。

答えの解説によると、「ミニカーの積載物の重量制限は、30キロまでである」と書いてあるのですが、問題文では最大積載量が何キロかと問われているわけではないので、60キロを超える荷物を積んではならないって言うのは、一様正しいことになると思うのですが、どう思いますか?

 

回答者の主張

「ミニカーの荷台には、60キログラムを超える荷物を積んではならない。」

と言う命題に対しての論理学でいうところの「対偶」は、

「ミニカーの荷台に積んでも良い荷物の重量は、60キログラム以下である。」
(別の言い方をすれば「ミニカーの荷台には、60キログラムを超えなければ荷物を積んで良い。」)

となります。

「最初の命題が正しければ、その対偶も正しいものにならなければなりません」が、道交法から言えば明らかにこの対偶は間違っていますから、論理学上の観点からは「最初の命題も間違っている」としなければなりません。

すこし整理してみよう。

 

質問者の主張

僕とほとんど同じである。というか、同じ悩みを持つ人が世の中には居るものだなぁと...

 

少しうれしくなった。

 

回答者の主張

 

回答者は、

論理学において、ある命題が真ならばその対偶も真であり、ある命題が偽ならばその対偶も偽である、という事実を用いている。

 

そして例の問題の答えが×であることも、対偶をとれば自ずとわかるのだ、と主張している。

 

果たしてそれは正しいのだろうか。

 

これを検証するために考えていこう。

 

 

対偶をとるとは

 

法令では

ミニカーの荷台には30㎏を超える荷物を積んではならない

と規定されている。

 

 

これは真であり、絶対に揺るがない。

 

さて、問題の文は

 

「ミニカーの荷台には、60キログラムを超える荷物を積んではならない。」

 

だった。

 

では、この対偶をとってみよう。

 

 

60キログラムを超える荷物を積んで良いのは、ミニカーの荷台ではない

 

である。

 

回答者の主張する対偶は、

「ミニカーの荷台に積んでも良い荷物の重量は、60キログラム以下である。」

 

 

であるが、これは間違いである。

 

対偶をとる」とは、「pならばqである」という命題に対して、以下の2つの手順を踏む作業のことである。

 

(1)pとqをそれぞれ否定

(2)因果関係を逆転させる

 

つまり、「pならばqである」に(1)を適用して

 

p → pでない

q → qでない

 

を得る。

 

次に(2)を適用する。因果関係を逆転するのである。

 

つまり、「qでないならばpでない」である。

 

だから、先ほど述べたように

 

「ミニカーの荷台には、60㎏を超える荷物を積んではならない」

 

の対偶は

 

「60㎏を超える荷物を積んで良いのは、ミニカーの荷台ではない」

 

となるのだ。

 

回答者は対偶をとったと主張しているのにも関わらず、そもそも因果関係を逆転していないのである。

 

さらにいうと、元の命題と「荷物」にかかっている修飾語が違うのである。

 

そもそも、「荷物」の修飾語は「60㎏を超えた」であった。

 

しかし、回答者は対偶(?)を取った後「荷物」を「ミニカーの荷台に積んでも良い」で修飾している。

 

言葉の修飾関係は、対偶をとっても変えてはならない。

 

全くの間違いである。

 

したがって、この知恵袋の回答は無効である。

 

そもそも対偶をとる意味はあったのか

お気づきの方が多いと思うが、例の問題文の対偶はもとの文よりも分かりにくくなっている

 

「60㎏を超える荷物を積んで良いのは、ミニカーの荷台ではない」

 

大変まわりくどい。

 

わざわざ対偶をとったのに、むしろ分かりにくくなっている

 

無駄な作業と言わざるを得ない。

 

しかし、あえてこの対偶の命題で考えてみよう。

 

そこで、

 

60㎏を超える荷物を積んで良いのはミニカーの荷台ではない

 

という対偶の命題を、論理学の厳密さを失うかもしれないが、少しだけ言い換えてみよう。

 

60㎏を超える荷物を積んで良い車は、ミニカーではない。

 

としてみた。ほぼ対偶の命題と同義になる筈だ。

 

60㎏を超える荷物を積んでよい車はもちろん存在する。

 

でも、ミニカーはその車に該当しない

 

だって、ミニカーには30㎏を超える荷物を積んではいけないから

 

対偶もどう考えても〇である。

 

対偶の対偶は元の命題であるから、

 

「ミニカーの荷台には60㎏を超える荷物を積んではならない」

 

もまた〇である。

 

対偶の真偽を考えても結論は変わらない。

 

「60㎏以下なら積んで良い」とは言い換えられない

 

「ミニカーの荷台には、60㎏を超える荷物を積んではならない」

 

に対して、

 

これはつまり

「60㎏以下の荷物なら積んでもよい」と解釈できるから×

と言う人がいる。

 

一見その主張は正しいように思えるかもしれないが、これもまた重大な間違いである。

 

60㎏を超える積載を禁止」=「60㎏以下の積載を許可

 

厳密には同じではないのである。

  

子どもに「人の頭を叩いてはいけません」と叱ったとしよう。

 

子どもはそれに従ったが、翌日からは人の尻を叩くようになった。

 

それを見た親は、いやー、別に尻を叩くことを許可してないんだけどなぁ...と思って今度は

 

人の尻を叩いてはいけません

 

と注意する。

 

子どもはその注意に従い、翌日子供は人のみぞおちを叩くようになった、以下同文。

 

Aを禁止する」というのは「A以外の許可」ではないのである。

 

だから、「60㎏を超える積載を禁止」する文は「60㎏以下の積載を許可したことにならないのだ。

 

このような理由で

 

「60㎏以下の荷物なら積んでもよい」と解釈できるから×だ

 

とするのも間違いなのである。

 

「60㎏を超えて積むのはダメ」という文章を「60㎏以下なら積んでもよい」と解釈することは絶対にできない。

 

まとめ

結論として

 

ミニカーの荷台には、60kg以上の荷物を積んではならない。〇か×か。

 

の答えは〇であり、公式の解答は誤りである。

 

いち早く関係者にこの記事の存在を知って頂きたく、切に願うばかりである。

 

2017/5/28 森見ますお

書評『論文の書き方』:文章力を上げる最強の練習法

ずいぶん古い本を紹介する。

 

初版は1959年で、メートル法が実施された年だそうだ。よくわからない。

 

本のタイトルは『論文の書き方』、岩波新書1959年。

 

著者の清水幾太郎は日本の社会学者である。

 

彼の文章の明晰さは広く知られていたという。

 

そんな清水氏が書き下ろすこの著作は、文章力向上のための秘伝の書と言えよう。

 

ふと、この本に惹かれた

僕がブログを日夜更新し続ける原動力は

 

様々な知識を得て、上手な文章で伝えたい!

 

という気持ちだけである。

 

その気持ちが強く働いたからか、ふと書店でこの新書を買おうと思ったのである。

 

どうすれば文章力が上がるのか

もちろんそれは、この本に書いてあるテーマそのものである。

 

そのうち僕の心に刺さったものだけをピックアップしていこうと思う。

 

書物を読んで人に紹介せよ

清水氏いわく、

 

読んだだけでは、内容は身につかない。

読んでいる途中はわかったつもりでも、時間が経つとその内容は蒸発してしまう。

だからその内容を自分の手で表現し、人に伝えよ。自分が著者になるのだ!

書いて初めて、内容が自分のものになるのじゃあ!!

 

なるほど、説得力がある。

 

しかし、これだけが文章力向上のための条件とは思えない。

 

すると、本にはもう一つの条件が記されていた。

 

文字数を制限せよ

前述の紹介文は「1000字以内」などと制限をつけるのが良い、とあった。

 

え、たくさん書く練習をした方が良いんじゃないの? と僕は思ったのだが、すぐ後の記述が刺さった。

 

...狭い土俵があってこそ、相撲の技術というものは磨かれるのだ...土俵が狭いから負けたので、土俵がもっと広ければ勝ったのだ、というのはナンセンスである...画家は画布に描かなければならない。...画布は小さいもの、限りあるものである。画家はこの小さい世界に大自然を写し取れねばならない。いや大自然を写し取るのではなくて、小さな画布の上に自分で大自然を想像するのである。文章もこれと同じことで...

 

座布団を10枚くらい持っていかれた。

 

とんでもない文字数の原書を1000字にまとめるという時点で、その内容を凝縮する必要があるのである。

 

その凝縮の過程で文章力というのは切実に必要なのだ!

 

そしてこの一文を書き終わった時点で954文字も使ってしまった。

 

 

残りは46文字。どうやって使えば良いのだろう。

 

完全敗北。僕の文章力はまだまだなのである。

 

 

 

2017/5/26 森見ますお

 

「うれしい」と「よろこばしい」

「うれしい」と「よろこばしい」は何が違うのか、というお題を与えられました。

 

全くわからないため、馬鹿みたいにいろんな例文を挙げていこうかと思いますのでお付き合いください♡

 

お小遣いをもらって

お小遣いをもらったら「うれしい」です。

 

お小遣いをもらったら「よろこばしい」とは思いません。

 

お金欲しい。欲しくない??

 

バヌアツ人のボールドウィンさんが100歳を迎えた

よろこばしい

 

なんてよろこばしいのでしょう。

 

100歳まで生きたのです。

 

それは、よろこばしいことです。

 

でも、別にあまりうれしくはない。

 

今日の夕飯は吉野家の牛丼

うれしい。うれしいに尽きます。

 

別によろこばしくない。

 

僕のばあちゃんが100歳の誕生日を迎えた

「うれしい」し「よろこばしい」!

 

ばあちゃんが長生きしてくれたのがとても「うれしい」し、そもそも100歳まで生きることは「よろこばしい」ことです。

 

バヌアツに住んでいる僕のばあちゃんが100歳になった

「うれしい」し「よろこばしい」です。

 

どこに住んでいようが僕のばあちゃんは僕のばあちゃんですから。

 

バヌアツに住んでいる僕のばあちゃん(100歳女性)が夕飯に吉野家の牛丼を食べた

ばあちゃんが僕の大好きな「吉野家の牛丼」をバヌアツの地でわざわざ食べてくれているのは「うれしい」です。

 

しかも状況を想像すると一周回って「よろこばしい」気もしてきました。

 

吉野家の牛丼がお小遣いをくれた

うれしい

ボールドウィン吉野家をバヌアツに建設した

日本文化の海外進出はよろこばしい限り

ボールドウィン吉野家をバヌアツに建設したらバヌアツのばあちゃんから「吉野家が神すぎる」というラインをくれた

うれしい、よろこばしい

結論

馬鹿みたいな例を挙げてきましたが、どうやら「うれしい」という言葉は個人的な希望要望期待がかなった時の感情で、「よろこばしい」というのは社会的におめでたいということなのでしょう。

 

ボールドウィンが100歳になっても僕にはしったこっちゃないですから、別にうれしくない。逆に長生きしてほしいと「希望」していたおばあちゃんが100歳になれば

「うれしい」のです。

 

そもそも100歳になること自体、おめでたいことですから、どちらの例も「よろこばしい」ということになるのですね。

 

おしまい! 

2017/5/24 森見ますお

2017/5/26 更新

文章力がない奴がブログを書いてもいいではないか!!!

一週間ブログを続けてきて思ったことは

 

絶望的に文章力がない

 

ということです。

 

読んだ人が全然反応してくれないんです。

 

これは絶対に僕の文章力のせいだと思います。 

 

例えばこの記事

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

ちょっとした「ネタ」を意識して書いたものの、はてなスターは全くつきません。

 

というか、今読み返したら完全にすべっている!

 

かといって、どうしたら良くなるのか全くわかりません

 

いやー、困った

 

次にこの記事

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

読者の皆さんに有益な情報を、という思いで書いたこの記事。

 

反応ゼロ。

 

なんでだよ! と思って読み返したら、究極に読みにくかったですね。

 

こりゃダメだ。

 

そして、この記事

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

これは、吉野家のおいしさを伝える、という目的と、単なる「飯テロ」目的で書いたんですが、これも全然ダメ。

 

読み返したら一貫性の「い」の字もない。

 

なんで牛丼の話を始めたのに、後半は豚丼食った話してるんだー!

 

大丈夫かー? 森見く~ん?

 

でも、反応がいい記事もあるんです

 

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

この辺。

 

な、な、なんと、はてなスターが付いている!

 

初期のブログなのに、来た人がはてなスターを付けてくれている!

 

歓喜

 

でも、なんでこういう記事だけ反響があるの? と疑問に思いました。

 

そしてその理由はすぐに思いつきました。

 

自分に正直な記事は反響があるのではないか

これらの記事は、自分の日本語力や文章力の低さを謙虚に認め、それを改善しようと奮闘していることが読者に伝わっているのではないかと思います。

 

そして、その様子は他人から見て良く映るのではないか、と考えました。

 

だから反響があるのではないでしょうか。

 

自分というものを等身大に伝えようとすることが、自分の思いをうまく伝えるコツなのかもしれません。

 

自分を隠していては続かない

ブログを始めた当初は

 

「僕は自分のブログを読んでもらいたい。だからうまい文章を書かなければ!」

 

と、考えていました。

 

でも現実には、すぐに上手い文章が書けるわけもなさそうです。

 

「うまい文章を書かなければならない」なんて気負っていたら、続きそうにありません。

 

せっかく始めたブログ、続かなかったら絶対にもったいない!

 

だから、これからはあまり無理をしないことにします。

 

自分の弱点を認め、それを克服しようとする姿勢を発信していきたいと思います。

 

むしろ「文章が下手」であることを武器にする

文章が下手であることを認めたものの、依然として「多くの人に読んでもらいたい!」という気持ちは変わりません。

 

そのためにはある程度の人気が必要なのでしょうが、世の人気ブロガーはみんな文章がうますぎるんです!

 

恐らく彼らと文章力で戦っても僕は一生勝てないでしょう。

 

だから、僕は「文章が下手だけど、人一倍の努力をする勤勉ブロガー」を目指します。

 

文章力」では勝てないけど、「勤勉さ」では誰にも負けない努力をします。

 

そして、「文章が下手」キャラを定着させて十分に活用していく!

そうするとハードル下がるからね

 

僕は「森見ますお百貨店」が日本中のすべての人に知れ渡るまで、あきらめない。

 

世のブロガーよ、今に見てろよ!

 

2017/6/29追記

過去の自分、イミフなこと言ってるなwww

で、今この本読んだんですけど、めっちゃ良いです。

 

それだけっす。

 

2017/5/20 森見ますお

 

吉野家が神すぎる

f:id:vagusnerve:20170519161829p:plain

 

眼前に広がる肉

 

だしの素晴らしい香り

 

それは食欲という本能を目覚めさせる

 

何も考えられなくなり、機械のように目の前の牛と米をひたすら口に輸送する

 

牛丼、それは神が人類に与えた祝福

 

牛丼以上に神がかっている食べ物はない

 

続きを読む