ディベートが苦手です
ディベートの力というのはどうやって伸ばすことができるのだろう?
現代を生きるなかで、どうしたらディベートを活用できるのだろう?
グローバル化が騒がれる時代、西欧が重視するディベートの力が日本人にも求められているらしい。
時代の潮流なのだろう。僕の通う大学でもディベートの授業が設けられた。
一方、僕は「ディベート」の「ディ」の字も分からない生粋の日本人である。
意見を戦わせる習慣などない。
だから、今その授業にずいぶん苦しんでいるのだ。
イヌが良いのかネコが良いのか
本当に辛かった。
初めての授業のことである。
とりあえず「ディベート」というものを体験してみよう! といった趣旨だった。
そこで出されたお題は
「ペットとして買うならイヌとネコのどちらが良いか。ディベートせよ。」
である。
そもそもの話だが、僕は動物を飼ったことがない。
だから、そもそも「イヌの良さ」や「ネコの良さ」について一切の知識がない。
せいぜい、「73%のネコはかわいい」とか「67%のイヌは怖い」といった漠然とした感想しか持っていない。
そんな状況で
「イヌとネコについてディベートせよ」
と言われても、どうしていいのか分からないのである。
困惑を隠しきれなかったが一応講師の話を聞いていた。
すると、何やらディベートの方法を説明し始めた。
どうやら、イヌとネコについて漠然と議論するわけでは無いようだ。
「イヌ派」か「ネコ派」か
まず各々が「イヌ派」と「ネコ派」に分かれるらしい。
そして、「イヌ派」の人間は鬼のように「イヌの良さ」を主張をし、「ネコ派」の人間は鬼のように「ネコの良さ」を主張しなければならない。
逆に「イヌ派」の人間は鬼のように「ネコ派」の意見を攻撃し、「ネコ派」の人間は鬼のように「イヌ派」の意見を攻撃しなければならない、ということだ。
なにがなんでも、どちらかに肩入れしなければならない。
これは辛い、と僕は思った。
僕は小学校の頃から「みんな違ってみんな良い」という教育を受けてきた。
当然、どんな動物を飼うかは人の好き好きである。
別に僕にとって、人がキリンを飼おうがワニを飼おうがライオンを飼おうが、なんでもよいのである。
意見をぶつける必要などないのではないか。
豊かなコミュニケーション
ワニを飼っている人に「ヘビの方がイイヨ!」と言っても、絶対に受け入れてもらえない。
むしろ、ワニを飼っている人に議論を吹っ掛けるのはもったいない。
「ワニの良さ」について教えてくれ、という姿勢でお話しした方が100%楽しいはずだ。
そうすることで、相手も気を良くするし、今度は逆に「ヘビの良さって何ですか?」と聞いてくれるかもしれない。
そうやって話している間に、自分が「ワニの良さ」に気づいたり、相手が「ヘビの良さ」に気づいたり、知らない間にペットを交換しているかもしれない。
豊かなコミュニケーション。
きっとビジネスでも基本姿勢は同じはずだ。
大学生の分際でこれを言うと怒られてしまうかもしれないが、将来、目をギラギラさせて議論を吹っ掛けてくる人たちとのお取引はあまりしたくない。
お互いに良さを引き出す交渉をしたい。
少し、話に感情がこもってしまった。話をもどしたい。
ネコ派になった僕
僕は「ネコ派」に振り分けられた。
僕の意思ではないが、僕は「ネコ派」だ。
おお、俺は「ネコ派」だ。ネコ最高。ネコ以外は受け付けない!
そうして戦場に送り出された僕の相手は、見るからに利発でディベート経験がありそうな「イヌ派」の女子だった。
対戦開始。
「イヌ派」が早速主張してきた。
「イヌはかわいいし、イヌは頭が良いからイヌの方が良い」
ふむふむ、ふむ、ふむぅ~?
反論
反論しなければならないのか?
反論
反論、はできない
まず、「イヌはかわいい」という命題だ。
「イヌはかわいい」と主張する彼女は、本気で「イヌ」を「かわいい」と思っているに違いない。
僕のまわりでは「ネコの方がかわいい」という人が多いが、それは「イヌがかわいくない」ということを立証する十分な論拠にはならない。
なぜならば、「かわいい」という指標があまりにも主観的だからだ。
よって、彼女に対して「それはおかしい。ネコの方がこうこうこういう理由でかわいい」
と主張することは、たとえディベートの場でもできない。
なぜならばそれは、彼女の「イヌはかわいい」と感じた感性を否定することになるからだ。
他人の主観的感性を否定することは人格否定に近いものがある。
だから反論することはできない...
そう思いながらも苦し紛れで意見を言った。
「『イヌはかわいい』という意見を反対するつもりは100%ないが、それはあまりにも主観的であり人によって異なるから、その意見は一般性に欠けるのではないか」
とりあえず、この件については何とかなった。
次は「イヌの方が頭が良い」という命題についてであるが、これに関しては僕に知識が無いため反論できない。
とりあえず理由を詳しく聞いてしのごうと思い、
「なぜ犬の方が頭が良いと思うのか?」
と聞いてみた。すると、、、
「イヌに『お手』とか『おすわり』とかを教えると覚えられるでしょう? だからイヌは頭が良いんだよ」
僕は答えた
「なるほど、イヌは頭が良い。」
講師が飛んできて、そして怒られた。
ディベートをせよ、と。
僕は純粋に相手の意見に納得し、同意したのだ。
なぜ怒られなければならないのだ。
意味が分からなかった。
その後も状況は変わらなかった。
僕は終始うなずき、相手の意見に納得し続けた。
僕がうなずくと、彼女も不満そうな顔をした。
「ちゃんとクリティサイズして!」
なぜ、なぜだ、僕はあなたに同意しているに、なぜ不機嫌になるのだ...
ディベートの意味とは
別にディベートを否定する気など全くない。
死刑制度に賛成か反対か。
大いにディベートした方が良い。
というか、ディベートというのはそういったシリアスな問題について理解を深めるには必要な手段だろう。
政治家の方や外交官の方などはこの力がものをいうと思う。
政治家や外交官でなくても、もちろん必要な場面はあるだろう。
しかし、この技術は乱用してもよいのだろうか?
家族で夕飯を何にするか議論するとき、ディベートの形式が最善だろうか?
お店で値切るとき、お店が値引きをするべき論拠をまくし立てるのが最善の方法だろうか?
イヌとネコの議論を例にとってみても、議題や状況によっては適切ではないのではないか?
良きディベートを教わりたい
教育の現場で、なんでもかんでもディベートディベートと騒ぎ立てるのは、あまりにもグローバル化の潮流に感化され過ぎであろう。
西欧ではディベートの文化が根付いているそうだが、本当に日常生活の中でイヌとネコの議論をディベート形式でおこなっているのだろうか。
はなはだ疑問である。
きっと西欧でもそういった議論には思いやりがあふれているに違いない。
ディベートには使い道がある。
国、企業、その他の様々な組織において、その前途のカギとなる議論。
これは、思いやりでは解決できない問題だろう。
議論する人たちが国のため会社のため組織のため本気で意見をぶつけ合うことで、良いものが生まれていくのである。
しかし、そのような「ディベートの大きな利点」は残念ながら教育の現場で理解することが難しくなっている。
日本人はディベートが苦手だ。それは悪いことだ。だからディベートを学ばないと国際化の中で置いていかれる。
その通りだろう。
しかし、なんでもかんでもディベートだと押し付けることで、僕を始め多くの人に必要以上の反感を買っている。
ですからどうか、ディベートの本当の良さを教えてください。
2017/5/30 森見ますお