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失敗を次に生かすためのたった3つの心得

何もかもみんなしくじったのは

どれもこっちのてぬかりからだ

電燈が霧のなかにつきのこり

川で顔を洗ふ子と

橋の方では太くたつ町の黒けむり

 

――『何もかもみんなしくじったのは』宮沢賢治

 

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人間、普通に生きていれば失敗しますよね?

 

ほんの些細なものから、「こいつぁ、とんでもないことをしてしまった...!!!」というものまで、生きてればいろいろありますよね?

 

どんな優秀な人だって失敗するときは失敗する。そう信じたいですよね。

 

というか、そうでないと困るんだよナァ!

 

とにかくみんな失敗する。それでいいんですよ。

 

そう考えると、偉い人っていうのは、失敗を上手く次に生かせる人ってことになる。

 

だから、この記事の目的は、失敗を次に生かす方法を考えようぜ! というところにあります。

 

ということで、本題に入るネ!

 

失敗の原因を探り、解決策を考える

失敗をした時、「何で失敗したんだろう?」という疑問を持つことがすごく大事だと思うんです。

 

例えば、家族に玉子焼きを作ったら、めっちゃしょっぱくて大ブーイングを食らった! ということが僕にはあったんです。(馬鹿でしょう?)

 

それで、「ちゃんとレシピみたのに何でこうなってしまったんだろう?」と原因を探していたら、砂糖と塩を間違えたことが分かったんですね。

 

あと、砂糖と塩を全く外見が同じ容器に入れていたことも原因だった。

 

だから、ちゃんと容器の外側に「砂糖」とか「塩」とか中身を書くことにしました。

 

そうすることで、次からは絶対に間違えません。

 

というか、砂糖と塩を見分けられない時点で馬鹿なんだけど!!!

 

でも、当時はそんなことはまったく分からないわけで、容器に中身を書く対策で精いっぱいだった。

 

でも、今思えば、そういう健気な対策があったからこそ、砂糖と塩を見分けることができるようにもなったわけです。

 

本質の見えていない原因検索と対策であっても、それをすることでもっと本質的な問題が浮かび上がってくることもあります。

 

だから、原因検索と対策はどんなにクオリティーが低くてもやるべきだと思う!

 

ちなみに、失敗した原因を分析する方法は、以下の記事に詳しく書きました。

 

少しでも原因分析の精度を上げるための知恵を書いたつもりです。

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

 

失敗について人と話す

失敗したときって、自分の部屋にこもってうじうじ考えちゃうこと、ありません?

 

「あー自分はダメだ...」

「どうすれば...」

「なんでこんなことになってしまったんだ...」

「誰も助けてくれない...」

「つらくなってきた...」

 

かといって、「大丈夫なの?」と聞かれると、

 

「大丈夫! 自分で何とかするからっ!(^^)!」

 

と気丈にふるまう。

 

イヤ、そういうの良いから!!!!

 

相談しよ、相談。人に打ち明けようよ、それ。

 

悩めるワタシ♡ 辛いけど人には迷惑をかけない健気なワタシ♡

 

とか、そういうのが一番めんどくさいから!!

 

さっさと人に話しましょ。

 

人に話すといいことがいっぱいあります。

 

まず、人に話すだけで心が軽くなります。これは本当に大きい。

 

あとは、人にもよるけど、慰めてくれて神! ってなります。

 

次に、相手の頭の良さによるけど、原因と解決策を分析してくれて神! ってなります。

 

最後に、相手がマザー=テレサかどうかによるけど、解決するお手伝いもしてくれて神! ってなります。

 

とにかく人には聞いてもらうべきです。ちょっとした失敗ならネタにしてしまうこともできるし。

 

失敗した事実に鈍感になろう!

さっきも言ったと思うけど、失敗して一番問題なのは、自身がなくなっちゃうことだと思うのです。

 

つまり「失敗を背負ってしまう」わけです。

 

例えば、ボーリングをやっていて、

 

「さっきは失敗したなぁ」

「上手く投げたつもりなのにガーターだった」

「次もおんなじ失敗をしちゃう気がする...」

「さっきで変な癖がついっちゃったかなぁ」

 

とか、うじうじ考えていて、次のボールがストライクになるわけがない( *´艸`)

 

そうやって失敗を背負っているときって、今やるべきことに集中できていないんですよ。

 

これでは失敗を生かすもくそもない。

 

さっきやらかした失敗のことを考えている暇があったら、次に投げるボールに100%神経を集中させろよ! ということです。

 

では、逆に上手く失敗を生かせる強者は、こんな感じです。

 

―――

 

10:00 一投目終了。一投目はガーターだった。

 

インタビュアー「今のボールについてご感想は?」

強者「失敗でした。少し体幹がぶれてしまったことが原因でしょう。フォームがおかしかったからあもしれません。次は綺麗なフォームを意識したいです。」

 

10:05 他の選手の投球のため、しばらくお休み。

 

10:10 二投目スタンバイの時間

 

インタビュアー「先ほどは残念でしたね! 二投目はどうするのでしょうか?」

強者「先ほどは残念だった? さっきどんな投球をしたか、よく覚えていないね。とにかく今回は綺麗なフォームを意識したい。」

 

――

 

つまり、失敗の原因とその解決策だけを覚えていて、失敗の事実に対して鈍感になっていると言えます。

 

失敗の原因と解決策を記憶することは、あなたにとって大きな財産になります。

 

しかし、失敗した事実自体は財産になりません。

 

失敗を生かすには、失敗した事実に鈍感になるべきです!!! 

 

僕はこの力を「鈍感力」と名付けています。詳しくは以下の記事に書きました。

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

 

 

まとめ

それでは、この記事のまとめです。

 

  • 失敗の原因を検索し、解決策を見つけること
  • 失敗について人と話すこと
  • 失敗の原因と解決策だけを覚え、失敗した事実は忘れてしまうこと

 

少々偉そうなことを書いたかもしれませんが、少しでも皆さんのお役に立てれば幸いです。

本を読むと語彙が増えるのか

最近よく本を読むようになって実感していることだが、本を読むと語彙が増える。

一冊読むごとに知らない語彙が1つ2つあるので、週に4冊読んでいる僕は週に大体6個くらいの新しい語彙を習得している計算だ。

僕は本を読む今の生活が大変気に入っているので、今後も週に4冊読み続けると思う。

すると、1年後にはどうなっているだろうか。

365 ÷ 7 ≒ 52

1年は52週間である。すると、

52 × 6 = 312

となる。つまり、1年後は今よりさらに312個の語彙を習得することになる。

仮にあと60年生きるとして、死ぬまでにどのくらいの語彙を得られるのかというと、

312 × 60 = 18720

より、約1万9千語の語彙を得られる。

ははは、凄いじゃないか。やっぱり本読むと語彙が増えるね。

物井「旦那、それはおかしいですぜ」

ん? なんだね物言いで定評のある物井君。

私の計算のどこに問題があるのだね。

物井「今、1週間に6語も語彙を得られるのは、お前さんがバカだからなんだぜ?」

おっと、人聞きの悪い。

物井「一冊の本を読んで、新たな語彙を得られる確率は、語彙が豊かになればなるほど下がる」

ほう、たしかにその通りだ。

物井「しかしお前さんは、週に6語覚えられると言った。きっと毎週毎週、同じ数の進出語彙に出会っている、と感じているからだろう。」

そうだな。

物井「本来ならば、本を読んで得られる語彙は、時が経つにつれて減少していく筈だ。それを実感として感じていてもおかしくない。」

うむむ

物井「もし、そう言った実感がないのならば、可能性は2つしかない。」

良いから早く言え

物井「お前さんが知らない語彙があまりにも多すぎて、ちょっと覚えたところで確率が変動しない可能性とお前さんが感覚が麻痺している不感症だという可能性の2つだ。つまりバカ。」

ううう...少なくとも前者でありたい...

物井「なるほど。すると今はバカだが、継続していくことで利口になるというわけだな。それならば、60年で1万9千では計算がおかしい。もっと少なくなるだろう。ま、どっちにしろこの事に気づかなかったお前さんもバカなんだがな」

なんと!

しかし...さっきの計算がおかしいとして、実際のところ60年後にはどのくらいの語彙が増えているのだろうか。

枡間竹君という数学の天才に今度聞いてみたい。

自分の意見を持つうえで大事なこと

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伊坂幸太郎の小説『魔王』の冒頭に、以下の二つの言葉が引用されていました。

 

For times they are a-changin' (とにかく時代は変わりつつある)

――Bob dylan " Times they are a-changin' "

 

時代は少しも変わらないと思う。一種のあほらしい感じである。

――太宰治『苦悩の年鑑』

 

こういうのを見せられると、「ふふふっ」と笑ってしまいます。

 

こんなのもあります。

 

他人のことがわからなくて、生きられるわけがない。

――養老孟司バカの壁

 

 

他人のことなんて、ほうっておけばいいのだ。

――堀江貴文『本音で生きる』

 

 

これは、自分で見つけました。自分で見つけてほくそ笑んでいます。

 

 

 

意見の違いは切り口の違いに過ぎない

円錐を想像してください。

 

円錐を横に切ると、その断面は円になりますね。

 

一方円錐を縦に切ると、断面には三角形が現れます。

 

もとは同じものであっても、断面は異なるのです。

 

人によって意見が異なるのは、これと同じだと思います。

 

同じ世界(=円錐)を見ていても、人によって見方(=切り口)が違えば、意見が異なるのは当然でしょう。

 

 

どちらも納得している

冒頭に「意見が合わないね」と引用した言葉に関してですが、僕は全部納得しています。

 

ボブディランの「時代が変わり続ける」という感覚も、も太宰治の「時代は少しも変わらない」とう主張も、どちらも分からなくはないです。

 

養老孟司の「他人を知れ」という意見も、堀江貴文の「他人のことはほうっておけ」という意見も、どちらも一意見として認められます。

 

何故互いに反する意見のすべてに納得できるかというと、その意見に至るまでの「過程」があるからです。

 

人によって、持っている知識も違うし経験も違うから、当然物事を見る「切り口」が違います。

 

だから、「この人の切り口はこうなんだな」と分かってしまえば、その論理展開の過程を一定の納得感のもとに追っていくことができるため、最終的に導かれた意見を自然に受容することができるのです。

 

意見は過程が大事

以上のことからこんなことが言えるのではないでしょうか。

 

最終的にどんな意見を持っていても、その過程さえしっかりしていれば問題ないのです。

 

人間誰しも、自分の意見を誰かに反対されるのではないだろうか、という不安を感じます。

 

しかし、意見というのは最初から合わないものなのです。

 

ですから、どうせ合わないのなら、むしろ、自分がその意見を持つに至った過程を相手に理解してもらうことが大事なんだと思います。

 

反対の声を恐れない

何か意見を持つと必ず反対の声が出ます。

 

しかし、それらの多くには耳を貸す必要はない。

 

反対者の多くは、あなたがその意見に至った過程を無視し、結論だけ見て攻撃してくることがほとんどだからです。

 

そういう奴らは、「意見は『切り口』によって変わってくる」という最も重要なことをわかっていない。

 

ですから、そんな奴らは無視すればよいのです。

 

一方、しっかりとした過程がないまま意見を持っているのであれば、それはあなたが悪いです。

 

くれぐれも、その点は気を付けた方が良いでしょう。

 

とにかく、意見というのは、本質的にはそれを導き出すまでの過程が重要だと僕は思っています。

 

※最後にこの記事を書くにあたって参考にさせていただいた(引用した)本を書いておきます

伊坂幸太郎『魔王』

養老孟司バカの壁

堀江貴文『本音で生きる』

太宰治全集

太宰の小説観と僕の提唱する小説危険説の親和性

太宰治がこんなことを言っているから面白い。

 

小説と云うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。

 

ここで僕はクスッと笑ってしまい、先を読みたくて仕方ないと思ったのですが、あえてここで本をパタリと閉じ、ブログの編集画面を開きました。 

 

太宰に刺激されたからかもしれませんが、小説は危ない、と思うことがあります。

 

なぜかと言うと、1つの考え方に引き込まれてしまう危険性を感じるからです。

 

例えば、幼児であれば『アリとキリギリス』を読んで努力型の人間こそ素晴らしい、という考え方に引き込まれますし、大人であれば、三浦綾子の『塩狩峠』を読むと「なんてキリスト教は素晴らしい教えなんだ」と自然に思うようになります。(キリスト教が危険というわけでは決してない)

 

あと、ドラマではありますが、『半沢直樹』を見て、上司に立てついた若手サラリーマンが増えたとか。

 

一部の小説家は、自らの世界観に読者を巧みに囲い込み、その思想を浸透させようとしてくるのです。

 

そしてそれを読む読者は「作者の思想に染まった」とは気づかないことが多いんですね。

 

なぜかと言うと、作者はその思想を自分の思想としてではなく、作中の人物の思想として表現しているからです。

 

普通、新書などで作者が「私はこう思います」という主張をした場合、我々読者はその主張に対して「本当にそうなのか?」という疑いの目を忘れることはありません。

 

しかし、小説になると話が変わってくる。

 

読者はその思想を、登場人物が考えていることだ、と勘違いするために、拒絶反応を示さない傾向があるのです。

 

日常生活でも、気持ちが通じ合う人の考え方は簡単に受け入れてしまうことが多いと思いますが、小説を読んでいると勝手に登場人物と気持ちを通じ合ってしまうんですね。メカニズムが似ていると思いませんか?

 

だから、小説を読むときに大事なのは、話半分で読むこと、だと僕は思います。

 

ははは、なんか過激な事いってらぁww

 

くらいに思って、小説に書いてあることは右から左に流してしまうのが良いんだと思います。

 

別にそうやって読んだとしても、小説の面白さは変わらないし。

 

再び太宰治

 

ここで僕は再び本を開いたわけですが、太宰治は僕の意見を補強するかのように小説をバッサリ斬っていて面白かったです。

 

冒頭の引用の続きですが、

 

小説を読んで、襟を正しただの、頭を下げただのと云っている人は、それが冗談ならばまた面白い話柄でもありましょうが、事実そのような振舞いを致したならば、それは狂人の仕草と申さなければなりますまい。

 

小説から教訓を得るなど馬鹿らしい、そいつは狂ってる、と言っているわけです。

 

毒舌すぎてもはや爽快さを感じるレベル。こういうの、僕は大好きなんですよ。

 

さらに追い打ちをかけるように、太宰は評論家をこき下ろします。

 

小説と云うものは、(中略)以て婦人のシンパシーを買わんとする意図明々白々なるにかかわらず、評論家と云う馬鹿者がありました、それを捧げ奉り、また自分の飯の種にしているようですから、呆れるじゃありませんか。

 

小説の書評記事を書くなど、大馬鹿者野郎だ、と。

 

口を開けば悪口雑言、ブロガーの敵ですね(笑)

 

太宰治と小説危険説 

 

小説は危険だから話半分で読もうぜ! という小説危険説と、小説は利口な大人が目の色を変えて読むものではない、という太宰の考え方は「小説って適当に読み流す程度のもんだよね」という部分で似ています。

 

だから偉大なる太宰治と自分を並べるのを許していただくとすると、小説観に関しては僕の小説危険説と太宰の意見は親和性があると思います。

 

 

ただ、ちょっと小説の書評記事書きにくくなっちゃったけどね(笑)

 

おわり。

 

電車で急にお腹が痛くなった時に押すツボ

電車で急に差し込みに襲われることがあると思います。

腹痛を治すにはトイレに行くしかないのですが、電車ではそういうわけにも行きません。

薬を持っていればいいのですが、そういうときに限って持っていない。

全身から出る冷や汗がでるし、本当に辛いですよね。

そんな時、良い対処法があります。

腹痛に効くツボ

こんなときに、痛みを軽減するツボがあります。

「肓兪(こうゆ)」というツボです。

肓兪はおへその左右指一本分の位置にあります。つまり左右一対二ヶ所です。

ここを強く圧迫することで、腹痛を軽減することができます。

注意

西洋医学的観点からは、メカニズムはよくわからないので、僕自身懐疑的ですが、僕には効きます。

一応、巷で売っていたツボの本に書いてあったので、まあいいかという感じです。

あと、完全に腹痛が消えるわけでなく、あくまでも軽減されるだけです。やらないよりはマシ、ということ。

皆さんに効くか効かないか分かりませんが、ピンチの時は藁をもすがりたいもの。是非やってみてください!

会話形式をやってみた

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今日は新たな試みをしたいと思っております。

 

ということで、本日のゲストの内藤さん・本郷さんです!

 

内藤「ただいまご紹介に預かりました、内藤です。ブログの筆者が、ブログに会話形式を取り入れたいと懇願するので引き受けた次第です。私のようなもので務まるのかと大変心配しておりますが、精いっぱいやらせて頂きます。」

 

本郷「なぜ俺はここにいるのでしょうか。早く帰りたい。」

 

はい! お二方ありがとうございます。

 

早速ですが、本題に入りたいと思います。

 

ブログを会話形式にする利点・欠点は何ですか?

本郷「会話形式だと読みやすくなるよね。」

 

内藤「テンポが良くなるんだよ。話が軽やかに進んでいくから。」

 

本郷「俺もそう思ってたけどさぁ、早くも筆者のタイピングがここで止まってるんだ」

 

内藤「残念ながら、テンポよく読めてもテンポよく書くことは出来ないってことなのか?」

 

本郷「どうやら、そういうことらしい。第一、筆者はコミュ障だ」

 

内藤「コミュ障が対話体のブログ書いてるの面白いな」

 

本郷「全くの同意だね。でも、これやっているうちに筆者のコミュ障も治るんじゃないの?」

 

内藤「それは一理ある。苦しんで強くなって行け、と言ってあげたいね」

 

うるせぇうるせぇwww

 

本郷「筆者がなんか言ってるよ」

 

内藤「『うるせぇうるせぇ』だって。コミュ障だからそれしか言えないらしい」

 

本郷「残念なひとだなぁ」

 

内藤「ところで、会話形式って筆者の責任逃れの言い訳になるよね」

 

本郷「いきなり話が難しくなったぞ。小学生にもわかるように説明してくれないか?」

 

内藤「お前は小学生か」

 

本郷「いやいや、そいうことじゃなくて、対話体にしたら小学生も読者のターゲットにできそうだから」

 

内藤「なるほど、君はずる賢い。で、話を戻すが筆者の責任逃れのことだ。何故責任逃れかというと、発言の責任を本郷と私になすりつけられるからなんだ。」

 

本郷「ハハア、読者から批判があっても、筆者の野郎は『これは僕の意見ではなく、登場人物の内藤君の意見です』と言い逃れができる。」

 

内藤「小説とかドラマの手口と同じだよ。製作者は自分の意見を登場人物に言わせるんだよ。そしたら読者視聴者が勝手に感情移入してくれるっていうカラクリだ」

 

本郷「意外と筆者も頭が良いんだな」※

 

※あくまでも本郷さんの発言です

 

内藤「そういえば、会話形式って上手くやれば弁証法っぽくできるよね」

 

本郷「なんだベンショーホーって???」

 

内藤「齋藤孝の本に書いてあったんだけど、

 

弁証法とは、ひと言で言えば、正・反・合のステップによる論理展開法のことです。つまり、あるテーマに対して、まず「正」である賛成意見を述べ、続いて「反」である意見をぶつ議論形式にする。最終的には議論の成果である「合」を述べる、というやり方です。

 

なんだって。」

 

本郷「頭よさそう。。。」

 

内藤「筆者の一人が語りで弁証法やるの難しそうだけど、会話形式だとやりやすいんじゃないかと」

 

本郷「確かにそうかもしれない。我々二人が喧々諤々の議論をして、筆者は高みの見物を決めるわけだね。

 

内藤「しゃくに障るね」

 

本郷「仕方ないよ。我々の実態は筆者なんだから」

 

内藤「それを言ってはおしまい」

 

話の収拾がつかなくなってしまうのが結構つらいです(笑)

 

政治家を呼んで議論させてる番組の司会者の気持ちが分かる(大嘘)

 

とりあえず、今日はおわり!

 

「天は人の上に人を造らず」って福沢諭吉の主張じゃなくね?

福沢諭吉と言えば『学問のすゝめ』で有名です。特に冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という一節は小学生でも暗唱できると思います。

 

僕は昔からこの言葉が凄く嫌いで、福沢諭吉が大嫌いだったんですね。

 

現実には全然平等じゃないのに、福沢諭吉は「みんな平等だ」とかいう自由平等論をかざすなんて、とんでもない偽善者だな、といった具合です。

 

しかし、僕の方がバカだったんです。今まで一回も『学問のすゝめ』を読んだことが無かったくせに、そんなこと思っていましたから。一次資料を読まずに伝聞で判断するバカ。

 

実際、冒頭を読んでみると

 

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり

 

となっています。全然意味が違うではありませんか!

 

どういうことかは、訳してみると分かります。

 

訳は

 

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言われている

 

となります。

 

この書き出しは、評論文によくある「一般論はこうだけど俺はそうは考えてないぜ、俺、頭が良いだろう! ふっふっふ」的な香りをぷんぷん漂わせています。

 

そう。これはその後覆される一般論なのでした。

 

ちなみに、調べてみたら「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は「アメリカ独立宣言」の文言らしいですね。"all men are created equal"ってやつです。

 

実際、福沢諭吉はつづきにこう書いています。

 

されども、今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

 

ちゃんと「実際はそうじゃないよな!」という分析してます。諭吉先生もそんなにバカじゃない。

 

そして、もっとも言いたいことが次にくるのです。

 

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

 

ざっくり意味を取ると、賢い人と馬鹿な人の違いは勉強したかどうかによるよな! って感じで、まあ意見としては納得できる。

 

というか、この考え方って日本社会に広く浸透していますよね。小さいころは努めて勉強しなさい、と周りから口を酸っぱくして言われますから。

 

皆の共通認識としてあるから、一万円札に載せてもらえたんじゃないかな? みたいな。

 

どちらにせよ、諭吉先生は自由平等論者ではなかったみたいです。

 

ちゃんと一次資料を読まないとな、と痛感した出来事でした。

 

 

 

 

そんじゃ、あの。