太宰の小説観と僕の提唱する小説危険説の親和性
太宰治がこんなことを言っているから面白い。
小説と云うものは、本来、女子供の読むもので、いわゆる利口な大人が目の色を変えて読み、しかもその読後感を卓を叩いて論じ合うと云うような性質のものではないのであります。
ここで僕はクスッと笑ってしまい、先を読みたくて仕方ないと思ったのですが、あえてここで本をパタリと閉じ、ブログの編集画面を開きました。
太宰に刺激されたからかもしれませんが、小説は危ない、と思うことがあります。
なぜかと言うと、1つの考え方に引き込まれてしまう危険性を感じるからです。
例えば、幼児であれば『アリとキリギリス』を読んで努力型の人間こそ素晴らしい、という考え方に引き込まれますし、大人であれば、三浦綾子の『塩狩峠』を読むと「なんてキリスト教は素晴らしい教えなんだ」と自然に思うようになります。(キリスト教が危険というわけでは決してない)
あと、ドラマではありますが、『半沢直樹』を見て、上司に立てついた若手サラリーマンが増えたとか。
一部の小説家は、自らの世界観に読者を巧みに囲い込み、その思想を浸透させようとしてくるのです。
そしてそれを読む読者は「作者の思想に染まった」とは気づかないことが多いんですね。
なぜかと言うと、作者はその思想を自分の思想としてではなく、作中の人物の思想として表現しているからです。
普通、新書などで作者が「私はこう思います」という主張をした場合、我々読者はその主張に対して「本当にそうなのか?」という疑いの目を忘れることはありません。
しかし、小説になると話が変わってくる。
読者はその思想を、登場人物が考えていることだ、と勘違いするために、拒絶反応を示さない傾向があるのです。
日常生活でも、気持ちが通じ合う人の考え方は簡単に受け入れてしまうことが多いと思いますが、小説を読んでいると勝手に登場人物と気持ちを通じ合ってしまうんですね。メカニズムが似ていると思いませんか?
だから、小説を読むときに大事なのは、話半分で読むこと、だと僕は思います。
ははは、なんか過激な事いってらぁww
くらいに思って、小説に書いてあることは右から左に流してしまうのが良いんだと思います。
別にそうやって読んだとしても、小説の面白さは変わらないし。
再び太宰治
ここで僕は再び本を開いたわけですが、太宰治は僕の意見を補強するかのように小説をバッサリ斬っていて面白かったです。
冒頭の引用の続きですが、
小説を読んで、襟を正しただの、頭を下げただのと云っている人は、それが冗談ならばまた面白い話柄でもありましょうが、事実そのような振舞いを致したならば、それは狂人の仕草と申さなければなりますまい。
小説から教訓を得るなど馬鹿らしい、そいつは狂ってる、と言っているわけです。
毒舌すぎてもはや爽快さを感じるレベル。こういうの、僕は大好きなんですよ。
さらに追い打ちをかけるように、太宰は評論家をこき下ろします。
小説と云うものは、(中略)以て婦人のシンパシーを買わんとする意図明々白々なるにかかわらず、評論家と云う馬鹿者がありました、それを捧げ奉り、また自分の飯の種にしているようですから、呆れるじゃありませんか。
小説の書評記事を書くなど、大馬鹿者野郎だ、と。
口を開けば悪口雑言、ブロガーの敵ですね(笑)
太宰治と小説危険説
小説は危険だから話半分で読もうぜ! という小説危険説と、小説は利口な大人が目の色を変えて読むものではない、という太宰の考え方は「小説って適当に読み流す程度のもんだよね」という部分で似ています。
だから偉大なる太宰治と自分を並べるのを許していただくとすると、小説観に関しては僕の小説危険説と太宰の意見は親和性があると思います。
ただ、ちょっと小説の書評記事書きにくくなっちゃったけどね(笑)
おわり。