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現役医学生の立場で感じる勉強のリスクと新技術の足音

長い間、「勉強することは偉いこと」だと刷り込まれてきた。

 

そして、その刷り込みが僕を勉強にかき立て、医学部に入学した。

 

しかし、最近は勉強についての別の側面を理解するようになった。

 

それは、「勉強はハイリスク」ということである。

 

今、まさに勉強をするべき身分にある現役の医学生として、肌感覚で感じることを簡単に書いていきたい。

 

新技術の脅威

画期的な技術革新によって既存の仕事が消失することは歴史を振り返ればいくらでもある。

 

馬車産業は自動車や鉄道の発明により衰退したし、CDの発明はレコード針産業の壊滅を引き起こした(どちらに関してもコアなファンがいることは確かだが)。

 

そしてこれらに努力を傾けていた人は、転業を余儀なくされるか、失業してしまったのである。

 

今までの努力が無駄になることは十分あり得ることなのだ。 

 

 

医師の仕事はどうなるのか 

医師の仕事に関してはどうだろうか?

 

例えば、体から採取した細胞や組織を顕微鏡で覗き、病気を診断する「病理診断」について考えてみたい。

 

近年、いわゆる「人工知能」による病理診断が期待を集めるようになった。

 

「将来、顕微鏡写真をソフトに解析させるだけで、病気が診断できるようになるのではないか」という期待である。

 

逆に考えると、「病理医の仕事がなくなるのではないか」という懸念も生まれてくる。

 

私が現在所属する研究室でも、機械学習を用いた病理画像解析の研究が行われている。

 

現段階では、病院ごとに染色の色合いが異なることや、写真の場所によってピントがずれていること、診断には不要なノイズが入ってしまうことなどの様々な困難があり、病理診断の専門家と比べれば診断力はかなり低い。

 

とはいっても、しばらくその研究を傍らで見ている限りでも、わずかながら進歩がみられ、数年後には実用に近づくのではないかとも思えてしまう。

 

医学生は病理診断の方法を大量の暗記によって学習していくが、これはどこまで重要なことなのだろうか。

 

学生時代に一生懸命勉強したことが、さほど意味をなさないという可能性はあるのだろうか。

 

さらには、病理に限らず、暗記が主体の医学の勉強が将来医師としてのキャリアにどこまで資するのだろうか?

 

いわゆる「人工知能」と呼ばれる新技術の足音は、僕を少なからず不安にさせている。

 

 

勉強とは時間を投資すること

勉強は沢山の時間を必要とする。

 

一つの診療科の基礎を学ぶのに、電話帳のような教科書一冊をあらかたマスターしなければならない。

 

診療科は具体的にいくつあるか知らないが20くらいはあるのだろうか。

 

すると、これらの基礎を学ぶだけで少なくとも2年は必要だ。

 

ただ、これだけでは全く仕事にならず、もっと専門的なことを学ばないことには患者は治せない。

 

すべての診療科を専門的に学ぶことは時間的に不可能だから、当然関わる診療科を絞ることになる。

 

そして一旦これだと決めた診療科に一生従事していく。

 

しかし、決めた診療科がたまたま人工知能が得意な分野で、早々に仕事を奪われたとしたら...

 

そんな短絡的な結末は起こり得ないかもしれないが、やはりそうなるかもしれないという恐怖感は拭えない。

 

もうそうなってしまったら、今まで必死に勉強していた時間は水疱に帰す

 

時間の投資に失敗したということだ。

 

別の診療科に力を注げばよかった...と。

 

これが僕の考える「勉強のリスク」である。

 

 

人工知能を管理する医師になれば良い説」はどうなのか

それだったら、人工知能を操る側に回れば良いではないか。逆にチャンスではないか。

 

という話が当然出てくるだろう。

 

学生時代から機械学習技術等の情報科学に精通しておくことで、もしそういう未来が訪れた場合、人工知能の管理側に回れる説だ。

 

僕もこちらの立場である。

 

この立場である以上、僕は日頃から情報科学に触れている。

 

研究室ではpythonをつかったゲノム解析を行っているし、最近はネットワークスペシャリストを取るための勉強をしている。

 

ただ、これらの勉強に時間を割くことにもやはりリスクがあると思う。

 

僕が今のところ考えているリスクが一つある。

 

「結局人間がやるほうが楽じゃん、という結論になるリスク」である。

 

これは一番大きなリスクだ。

 

いわゆる「人工知能」は、簡単には線の引けない曖昧な問題に対して、人間の感覚に近いような解を導くことができるとして大変期待されている。

 

ただ、医師は画像や血液検査などの客観的なものの他に、その人の息づかいや鼓動、呼吸、見た目、時には香りなど、およそ想像もつかないほど複雑な情報を統合して診断をつけている

 

画像や血液検査の数値を分析することは、人工知能の得意とするところである。

 

また、息づかい、鼓動、呼吸、見た目、香りなどの情報も、やろうと思えば問題なく機械化できるだろう。

 

ただ、息づかいを録音するためにまず録音機を口の前に起き、次に聴診器をコンピュータにつなげて鼓動と呼吸音をインプットし、写真を取ってコンピュータにインプットし、香りセンサーを近づけてインプットし、という手順を踏むのだとすればあまりにも面倒である。

 

これらが一瞬でできるようなロボットが開発されればそれまでであるが、それが無理なのであれば、人間がやってしまったほうが遥かに実用的で経済的だ。

 

やろうと思えば人工知能ができるが、そこまでしてやらなくても良いという結論は十分に考えられる。

 

もしある時点で技術開発がストップし、上のような結論に落ち着いたとしたら、僕が情報科学の学習にかけた時間の多くは無駄になる。

 

もっと臨床医学の勉強を集中的にやっておいたほうが良かった、ということになるのだ。

 

 

時間をかけて勉強すべきものを選択することが重要

せっかく勉強したのに、さほど意味をなさなかったというリスク。

 

勉強は無条件にやっていれば偉いというものではない。

 

世の中は常に変わり、今社会に求められていることが10年後にも同じように求められるという保証はどこにもない。

 

社会の流れをキャッチできないと、勉強する対象を誤ってしまう。

 

勉強にはリスクがある。

 

とにかく時間がかかる。人によっては恋愛をする機会すら失う。

 

大切な時間を失わないためにはどうすればよいのか。

 

これが、しがない医学生が日々感じるなんとも言えない不安感なのである。