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「形式が嫌い。自由に書きたいんだ!」という甘い考えをしていたものです。

1.

最近どうも文章が進みません。

日常生活で気がついたこと、面白い本の紹介、吉野家の素晴らしさなど、テーマを決めたら、後は無計画に書きなぐる。今まではこのようにしてきました。

今までは良かったのです。ブログを始めた時には勢いがありました。書くことに迷いはありませんでした。キーボードをたたく音が止まりませんでした。

しかし、最近はめっぽうダメです。

次に何を書けばよいのか分からなくなってしまうのです。

次に書く一文は今までの文章の流れに沿わなければならない、という強迫観念から、どうしても先に進めなくなってしまうのです。

ああしては良くない、こうしても良くない、とネガティブな考えがどんどんと湧き出てくるのです。

そうしているうちに時間が過ぎてしまって、僅かばかりでも存在していた「勢い」すらも失われ、なおさら書くことに困るという悪循環に陥ってしまうのです。

一度この循環に入ると、抜け出すことはできません。

挙句、文が進まぬまま2時間も3時間も経つものですから、目はしょぼしょぼするわ足はしびれるわ肩は凝るわで、体にも無駄な負担がかかってしまいます。



2.

ダラダラと書いていても仕方ないので、まずは論点を確定したいと思います。

一番困っていることは、「文章がうまく書けなくなった」ということです。

診察室で患者が主に訴える症状を「主訴」と言うらしいですが、「文章が上手く書けなくなった」というのがまさにこの「主訴」に当たりそうです。

「先生、今日は胸が痛くて来たんです」

とか

「先生、昨日からめまいが止まらなくて」

とか、このような訴えが「主訴」の例なのですが、僕の場合、

「先生、一週間から突然、文章がうまく書けなくなってしまったんです」

と、こういう具合になります。

ところが、主訴が分かったところで喜んではいけません。

なぜならば、医者が「胸が痛い」という患者の主訴だけで「狭心症です」とか診断したら、たちまちにやぶ医者のレッテルを貼られてしまいます。当然ですね。

主訴だけじゃ、病気の幅が広すぎて全然診断がつかないわけです。

だから医者はその後、痛みはいつからだ、どんな痛みなんだ、朝は痛むのか、歩いたり階段上るときはどうだ、自分や家族が今まで大きな病気したのか、酒はたばこはセっk(おっと失敬)は、と根掘り葉掘り聞いてきて、さらにはおなかを叩いたり足を叩いたり血を取ったりして検査をする。それで初めて「狭心症です、心臓の血管が1本つまりかけている。この薬を飲みなさい」と診断をつけ薬を出したり手術に踏み切ったりするのです。

だから、「文章が書けなくなってしまった」という「主訴」だけから解決策を考えようとすることは、やぶ医者のやっていることと全く一緒です。

まあ、ネットの記事にはこういった浅はかな考察をしているものが多い。と、こんなところで批判を加えても誰も得をしないので、黙って自分の話を続けます。

僕の場合、治療をしてくれる「お医者さん」がいないから、自分で分析して診断を付けなければいけません。これはずいぶん骨の折れる作業になりそうです。



3.

手のひらを返すようで大変申し訳ないのですが、お医者さんごっこはやめようと思います。

なぜならば骨が折れる作業になりそうだからです。理由がクズです。申し訳ない。心痛の至り。

ところで皆さんは「対義語」をどのくらいご存知ですか?

「真」ー「偽」
「善」ー「悪」
「美」ー「醜」

など、比較的わかりやすいものから、

楽天家」ー「厭世家」
「木石」-「有情」

など意味の分からないものまで様々あります。

それでは問題。
「形式」の対義語はなんでしょう?
















答え




「内容」です。「形式」の対義語は「内容」

高校で習うことです。覚えさせられました。

なぜそれらが対義語なのでしょうか。

孟浩然の漢詩を例にとって考えてみましょう。。

春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少


この漢詩の形式は五言絶句です。

4句からなる漢詩を絶句と言い、一句が5文字なので五言絶句と呼ばれます。ちなみに韻を踏む場所も決まっています。

で、句数と一句あたりの文字数、そしてどこで韻を踏むか、といった詩の内容とは関係ない機械的な取り決めのことを「形式」というのです。

この例に限らず、任意の漢詩から内容だけを吸い取ったとしたら、残るのは形式のみとなります。

つまり、「内容」ではないものが「形式」ということになるので、「形式」と「内容」は対義語というわけです。



4.

形式張ったものは、凝り固まっていてつまらなく内容も乏しい、と思っていました。

僕は自由に自分を表現したい、だから形式には囚われない、という信念を持っていました。

「形式」の対義語は「内容」だから。

「形式」に囚われると内容が薄れてしまう。そういう風に考えてきました。

何も考えず、思うがままに文章を書いていました。

僕は何かいけないことでもしたのでしょうか、先生?



5.

先ほど、漢詩から「内容」を取り除くと「形式」になる、と書きました。

恐らくこれは正しい。少なくとも自分の中では反論が見つかりません。

でも、先ほどの漢詩から「形式」を抜いたら「内容」だけが残るのでしょうか?

これはすんなりとは頷けない。

起承転結の枠組みを崩して、この漢詩の内容を説明できるでしょうか?

これは無理と言ってもいいでしょう。

僕にはこれ以上うまく説明できませんが、どうかご自身で試して考えてみてほしいのです。

漢詩でなくても構いません。

古池や
かはず飛び込む
水の音

内容を五七五の形式を外して完全に説明できるでしょうか。

「形式」ー「内容」の対義語に異論を示しているわけではありません。

形式がまされば内容がしぼむ、のような二元論で考えていたのがおかしかった、という猛烈な自己反省をしているのです。

考えてみれば、名を残す俳人詩人が形式を破っているのはあまり見ないことです。

彼らは常に内容の自由を求めていたはずなのに、形式はしっかりと守っていました。

これは、内容の自由を得るのに、その形式を守るのが最適だったからに違いありません。

確かに歴史上、たまに形式を破る強者が現れることもあります。

しかし彼らはそれまでは既存の形式を守っていて、そのうちに我慢ならなくなって新しい形式を生み出した天才にすぎません。

結局生み出すのは自由でなく新たな形式。形式なしには内容の自由はあり得ないのです。



6.

「文章が上手く書けません」という主訴があって、詳しく自己分析をすると、「形式」というものをあまりにも軽視していた、という検査結果が出た感じでしょうか。

孟浩然も李白松尾芭蕉俵万智も、みんな形式を守っていました。

長文作家の文章にも、その作家自身の形式がきっとあります。でも我々にはそれがあまりにも巨大すぎて見えないだけです。でもきっとある。芥川龍之介にも直木三十五にも又吉直樹にも、彼ら自身の形式、パターンがあるはずなのです。あまりにも文章が達者で、それが潜在化している可能性も高いですが。

思えば、音楽にも形式があります。

クラシック音楽にはソナタ形式とかロンド形式とか様々な形式があります。

ポップミュージックにも必ずAメロ、Bメロ、サビ、、、といった決まった形式があります。

ヒット曲も多くは形式にしたがっています。

どうして今までこのことに気がつかなかったのか。そんな自分が残念で仕方ありません。

「形式を軽視する」という大きな病。

自分はこんな大病を抱えていたのですね。

ブログにはブログの「書き方=形式」がある。

もちろんたくさんの「書き方=形式」が有るのだと思いますが、それを意識しないで書くことはなんと勿体無いことか。






7.

ブロガー、失格。






8.

太宰の読みすぎですね。ごめんなさい。

この文章も3500字に到達しようとしていて怖いので、そろそろ終わりにしたいなと思います。

吉野家の牛丼食いに行くので、さいならっ!

2017/6/21 森見ますお