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「なぜ書くのか」に対する芥川龍之介の答え

 僕が今抱えている課題として、ブログを続けるモチベーションを維持する、ということがあります。

 

モチベーションを維持には、技術が必要です。

 

でも今までその技術を得るためのヒントすら見つからず、困っていたのです。

 

しかし昨日、思いがけない所でそのヒントを得ました。

 

芥川龍之介全集を読んでいたところ、「はつきりした形をとる為めに」という題で、彼自身のモチベーションについて触れられていて、おや、と。

 

それで、これをブログの記事にしてやろうと思ってニヤニヤしながら今、編集画面の前にいるわけです。

 

その内容なのですが、ざっくり言うと、芥川龍之介が「中村さん」という人に「どんな要求によつて小説を書くか」というお題を出されてそれに答えている文章です。

 

「中村さん」って誰だ、という話は置いておきまして、まず「中村さん」の出したお題が分かりにくい気がしますが、大体「どうして小説を書くんですか?」というようなところだと思います。

 

気になる答えですが

 

が、大体あなたの問題は「どんな要求によつて小説を書くか」と云ふ様な事だつたと記憶してゐます。その要求を今便宜上、直接の要求と云ふ事にして下さい。さうすれば、私は至極月並みに、「書きたいから書く」と云ふ答をします

 (太字強調は僕が勝手につけさせて頂きました。以下の引用も同じです。)

 

書きたいから書く」と、本人の言う通りとても月並みですが芥川級の人が言うと重みが違いますね。

 

彼はさらに付け加えます。

 

之は決して謙遜でも、駄法螺でもありません。現に今私が書いてゐる小説でも、正に判然と書きたいから書いてゐます。原稿料の為に書いてゐない如く、天下の蒼生の為にも書いてゐません

 

別に小説を書くのは金の為でもなければ世のため人のためでもない、という訳です。

 

僕もかつて金をモチベーションにアフィリエイトサイトというものに手を出したことがあるのですが、お金を稼ぐことは例外なく辛いものでして、挫折をしました。

 

別に芥川が「金を求めるとモチベーションが続かなくなる」と言っているわけでは無い点に注意したとしても、少なくともモチベーション維持に金は必要ないことは言えるのではないでしょうか。

 

次に、「世のため人のためでもない」ということに関してですが、これは「天下の蒼生の為」というのを僕なりに解釈したものです。

 

ちょっとこの解釈はやりすぎかもしれませんが、この場ではどうかお許しください。

 

その上で、「世のため人のため」に書いているつもりのブロガーやライターも多いでしょうが、その多くは周りから見れば飛んだお節介です。

 

世のため人のため」にモノを書いてやろう、というのはあまりに横柄なことだとは思いませんか?

 

世のため人のためになっている」かどうかは、自分で判断することではなく、人が判断することなのですから。

 

人のためだと勘違いしている輩の文章は腐っています。モチベーション以前の倫理的問題です。

 

 

以上の2点、自分も物書きのはしくれとして、見習わなければなりませんね。

 

この後、彼はさらに意見を深めます。

 

ではその書きたいと云ふのは、どうして書きたいのだ―――あなた(森見注:中村さんのこと)はかう質問するでせう。が、夫は私にもよくわかりません。唯私にわかつてゐつ範囲で答へれば、私の頭の中に何か混沌たるものがあつて、それがはつきりした形をとりたがるのです。さうしてそれは又、はつきりた(ママ)形をとる事それ自身の中に目的を持つてゐるのです。だからその何か混沌たるものが一度頭の中に発生したら、勢いやでも書かざるを得ません。さうするとまあ、体のいい強迫観念に襲われたやうなものです。

 

読んでみてどうでしょうか。

 

皆さんにも、ふと、漠然とした考えを持つことがあると思います。

 

それは電車に揺られているときかもしれないし、風呂につかっているときかもしれませんが、芥川にもそういうことが何回もあったということでしょう。

 

この引用部を読んでいると、彼の場合

 

浮かんでしまった漠然としたアイディアを文章にして具体化したい

 

という欲が相当に強かったらしいのです。

 

彼の記述によれば、それは欲というよりはむしろ強迫観念のようなものだったらしいですね。

 

もしかしたらこれは、芥川に限らず、皆さんの中にも潜在的に存在する願望かも知れません。

 

勉強をしていて、仕事をしていて、人と話していて、テレビをみていて、

 

(なんだかなぁ...)

 

と思うことがある。

 

それを何か具体化してみたい、という願望です。僕にも少しありますがいかがでしょう。

 

 

文章を書く人にとって、この欲は生命線でしょう。

 

この欲は積極的に強くしていくべきだと思います。

 

欲を開発するのです。

 

「欲を開発」する、と言ったら別のものを連想させるので困っているのですが、この表現しか見つからないので許してください。

 

 

漠然としたアイディアを文章にして具体化したい、という欲をどんどん開発していくことが大事なのだと思います。確実にモチベーションにつながっていくはずです。

 

まとめると

芥川が小説を書くモチベーションの重要な部分としてまず、

 

  • 書きたいから書く
  • 金の為ではない
  • 人の為ではない

 

というのがあって、さらになぜ書きたいかというと

 

  • 漠然としたアイディアを文章で具体化したいという欲にも似た強迫観念がある

 

となります。

 

それに対する僕の解釈や僕が得た教訓は

 

  • 金目当てはモチベーション維持が難しい
  • お節介は勘違いなので内容が腐る(モチベーション以前の問題として)
  • 「漠然としたアイディアを文章にして具体化したい欲」を積極的に開発するべき

 

以上3点です。

 

どういったモチベーションでブログを書いていくのか、以前よりは明確になりました。

 

皆さんは芥川のこの文から何を考えますか?

 

よろしければご意見お聞かせください...

 

2017/6/22 森見ますお

「形式が嫌い。自由に書きたいんだ!」という甘い考えをしていたものです。

1.

最近どうも文章が進みません。

日常生活で気がついたこと、面白い本の紹介、吉野家の素晴らしさなど、テーマを決めたら、後は無計画に書きなぐる。今まではこのようにしてきました。

今までは良かったのです。ブログを始めた時には勢いがありました。書くことに迷いはありませんでした。キーボードをたたく音が止まりませんでした。

しかし、最近はめっぽうダメです。

次に何を書けばよいのか分からなくなってしまうのです。

次に書く一文は今までの文章の流れに沿わなければならない、という強迫観念から、どうしても先に進めなくなってしまうのです。

ああしては良くない、こうしても良くない、とネガティブな考えがどんどんと湧き出てくるのです。

そうしているうちに時間が過ぎてしまって、僅かばかりでも存在していた「勢い」すらも失われ、なおさら書くことに困るという悪循環に陥ってしまうのです。

一度この循環に入ると、抜け出すことはできません。

挙句、文が進まぬまま2時間も3時間も経つものですから、目はしょぼしょぼするわ足はしびれるわ肩は凝るわで、体にも無駄な負担がかかってしまいます。



2.

ダラダラと書いていても仕方ないので、まずは論点を確定したいと思います。

一番困っていることは、「文章がうまく書けなくなった」ということです。

診察室で患者が主に訴える症状を「主訴」と言うらしいですが、「文章が上手く書けなくなった」というのがまさにこの「主訴」に当たりそうです。

「先生、今日は胸が痛くて来たんです」

とか

「先生、昨日からめまいが止まらなくて」

とか、このような訴えが「主訴」の例なのですが、僕の場合、

「先生、一週間から突然、文章がうまく書けなくなってしまったんです」

と、こういう具合になります。

ところが、主訴が分かったところで喜んではいけません。

なぜならば、医者が「胸が痛い」という患者の主訴だけで「狭心症です」とか診断したら、たちまちにやぶ医者のレッテルを貼られてしまいます。当然ですね。

主訴だけじゃ、病気の幅が広すぎて全然診断がつかないわけです。

だから医者はその後、痛みはいつからだ、どんな痛みなんだ、朝は痛むのか、歩いたり階段上るときはどうだ、自分や家族が今まで大きな病気したのか、酒はたばこはセっk(おっと失敬)は、と根掘り葉掘り聞いてきて、さらにはおなかを叩いたり足を叩いたり血を取ったりして検査をする。それで初めて「狭心症です、心臓の血管が1本つまりかけている。この薬を飲みなさい」と診断をつけ薬を出したり手術に踏み切ったりするのです。

だから、「文章が書けなくなってしまった」という「主訴」だけから解決策を考えようとすることは、やぶ医者のやっていることと全く一緒です。

まあ、ネットの記事にはこういった浅はかな考察をしているものが多い。と、こんなところで批判を加えても誰も得をしないので、黙って自分の話を続けます。

僕の場合、治療をしてくれる「お医者さん」がいないから、自分で分析して診断を付けなければいけません。これはずいぶん骨の折れる作業になりそうです。



3.

手のひらを返すようで大変申し訳ないのですが、お医者さんごっこはやめようと思います。

なぜならば骨が折れる作業になりそうだからです。理由がクズです。申し訳ない。心痛の至り。

ところで皆さんは「対義語」をどのくらいご存知ですか?

「真」ー「偽」
「善」ー「悪」
「美」ー「醜」

など、比較的わかりやすいものから、

楽天家」ー「厭世家」
「木石」-「有情」

など意味の分からないものまで様々あります。

それでは問題。
「形式」の対義語はなんでしょう?
















答え




「内容」です。「形式」の対義語は「内容」

高校で習うことです。覚えさせられました。

なぜそれらが対義語なのでしょうか。

孟浩然の漢詩を例にとって考えてみましょう。。

春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少


この漢詩の形式は五言絶句です。

4句からなる漢詩を絶句と言い、一句が5文字なので五言絶句と呼ばれます。ちなみに韻を踏む場所も決まっています。

で、句数と一句あたりの文字数、そしてどこで韻を踏むか、といった詩の内容とは関係ない機械的な取り決めのことを「形式」というのです。

この例に限らず、任意の漢詩から内容だけを吸い取ったとしたら、残るのは形式のみとなります。

つまり、「内容」ではないものが「形式」ということになるので、「形式」と「内容」は対義語というわけです。



4.

形式張ったものは、凝り固まっていてつまらなく内容も乏しい、と思っていました。

僕は自由に自分を表現したい、だから形式には囚われない、という信念を持っていました。

「形式」の対義語は「内容」だから。

「形式」に囚われると内容が薄れてしまう。そういう風に考えてきました。

何も考えず、思うがままに文章を書いていました。

僕は何かいけないことでもしたのでしょうか、先生?



5.

先ほど、漢詩から「内容」を取り除くと「形式」になる、と書きました。

恐らくこれは正しい。少なくとも自分の中では反論が見つかりません。

でも、先ほどの漢詩から「形式」を抜いたら「内容」だけが残るのでしょうか?

これはすんなりとは頷けない。

起承転結の枠組みを崩して、この漢詩の内容を説明できるでしょうか?

これは無理と言ってもいいでしょう。

僕にはこれ以上うまく説明できませんが、どうかご自身で試して考えてみてほしいのです。

漢詩でなくても構いません。

古池や
かはず飛び込む
水の音

内容を五七五の形式を外して完全に説明できるでしょうか。

「形式」ー「内容」の対義語に異論を示しているわけではありません。

形式がまされば内容がしぼむ、のような二元論で考えていたのがおかしかった、という猛烈な自己反省をしているのです。

考えてみれば、名を残す俳人詩人が形式を破っているのはあまり見ないことです。

彼らは常に内容の自由を求めていたはずなのに、形式はしっかりと守っていました。

これは、内容の自由を得るのに、その形式を守るのが最適だったからに違いありません。

確かに歴史上、たまに形式を破る強者が現れることもあります。

しかし彼らはそれまでは既存の形式を守っていて、そのうちに我慢ならなくなって新しい形式を生み出した天才にすぎません。

結局生み出すのは自由でなく新たな形式。形式なしには内容の自由はあり得ないのです。



6.

「文章が上手く書けません」という主訴があって、詳しく自己分析をすると、「形式」というものをあまりにも軽視していた、という検査結果が出た感じでしょうか。

孟浩然も李白松尾芭蕉俵万智も、みんな形式を守っていました。

長文作家の文章にも、その作家自身の形式がきっとあります。でも我々にはそれがあまりにも巨大すぎて見えないだけです。でもきっとある。芥川龍之介にも直木三十五にも又吉直樹にも、彼ら自身の形式、パターンがあるはずなのです。あまりにも文章が達者で、それが潜在化している可能性も高いですが。

思えば、音楽にも形式があります。

クラシック音楽にはソナタ形式とかロンド形式とか様々な形式があります。

ポップミュージックにも必ずAメロ、Bメロ、サビ、、、といった決まった形式があります。

ヒット曲も多くは形式にしたがっています。

どうして今までこのことに気がつかなかったのか。そんな自分が残念で仕方ありません。

「形式を軽視する」という大きな病。

自分はこんな大病を抱えていたのですね。

ブログにはブログの「書き方=形式」がある。

もちろんたくさんの「書き方=形式」が有るのだと思いますが、それを意識しないで書くことはなんと勿体無いことか。






7.

ブロガー、失格。






8.

太宰の読みすぎですね。ごめんなさい。

この文章も3500字に到達しようとしていて怖いので、そろそろ終わりにしたいなと思います。

吉野家の牛丼食いに行くので、さいならっ!

2017/6/21 森見ますお

「生物とは何か」について知りたいときに読む本

生物とは何か」「生物の定義は何か

 

生物の教科書には一応、生命の定義が書かれています。

 

しかし、それは本当に生命の定義と言えるのでしょうか

 本当に生命を説明したことになるのでしょうか

 

少なくとも僕は感覚的に腑に落ちないのですが、いかがでしょうか。

 

この問題に切り込んだ本があります。

 

生命の定義を、我々の感覚に沿って再定義しようと努力した名著。

 

本当におすすめしたい本です。

 

題は『生物と無生物のあいだ』、筆者は生物学者の福岡伸一さんです。

 

福岡さんは京大卒で、ハーバード大学医学部研究員、京都大学助教授などを経て現在は青山学院大学の教授をなさっています。

 

科学者であると同時に、詩的な感性豊富なライターでもあります。

 

その文章は、理系文系という分類があること自体を疑わせるくらい美しい。

 

そんな福岡伸一さんのベストセラーを紹介させてください。

 

 

生物と無生物のあいだ』内容のまとめ

どんな内容が書いてあるのか気になるところだと思います。

 

でもすべての内容を要約することは僕の文章力では到底できない。

 

だから、僕がこの本を読んでいて「これは!」と思ったことを紹介する、という形で許してください。

 

小さな貝殻

 

本著第8章の冒頭、

夏休み。海辺の砂浜を歩くと足元に無数の、生物と無生物が散在していることを知る。美しい筋が幾重にも走る断面をもった赤い小石。私はそれを手に取ってしばらく眺めた後、砂地に落とす。ふと気がつくと、その隣には、小石とほとんど同じ色使いの小さな貝殻がある。そこにはすでに生命は失われているけれど、私たちは確実にそれが生命の営みによってもたらされたものであることを見る。小さな貝殻に、小石とは決定的に違う一体何を私たちは見ているというのだろうか。

 

見事な問題提起。

 

そう、確かに私たちは、ある対象に生命の営みがあるかどうか、一目で分かります

 

ではどのようにそれを判断しているのでしょうか?

 

恐らく、私たちはそれを論理的な思考ではなく、直感によって判断しているように思えてなりません。

 

すると、その直感というのは何者なのか、という疑問が自ずと湧いてくるのです。

 

高校の頃、生物の授業で習った生物の定義があるでしょう――

 

膜を持つ、自己複製能を持つ、恒常性をもつ、など、、、

 

――これらが、その判断にどれほど関係してくるのでしょうか?

 

全く関係してこない、というのが実際のところでしょう。

 

この定義は我々の感覚からはかけ離れているのです。

 

余りにも学問的過ぎるのです。

 

よく言えば厳密ですが、悪く言えば機械的

 

私たちの直感に1ミリも寄り添っていません。

 

福岡さんも本書の冒頭でこのように述べています。

 

何かを定義するとき、属性を挙げて対象を記述することは比較的たやすい。しかし対象の本質を明示的に記述することはまったくたやすいことではない。

 

私たちの感覚に寄り添う形で物事を定義しようと思うと、そう簡単にはいかないのです。

 

果たして福岡さんはどのような答えを出すのか。

 

ノックアウト

ラジオの機械の仕組みを知りたい、と思った時はどのようにしますか?

 

今の世の中、Google先生に聞けば分かると言う方もいるとは思いますが、一旦そのような手は禁止させて頂きます。

 

その機械の仕組みを知りたいなら、まずそれを分解するでしょう。

 

そして、ここからが重要なのですが、ある部品Aを抜いて再び組み立てる

 

すると音量が調節できなくなった、という事実があったとしましょう。

 

ここから、部品Aは音量を調節する機能があったことが分かります。

 

同じようにして、部品Bを抜いて組み立てると、ノイズは流れるけど選局はできなくなった

 

そこから部品Bは電波の検知に関わると予測できます。

 

それから先もずっと同じ。

部品C、部品D、部品E、、、とずっとやっていって、すべての部品に関してその機能を調べる。

 

さらに、部品同士をつなげる導線A、導線B、導線C、、、を順に切ってみるなどして部品同士の関連を調べる。

 

そうしていって、だんだんとラジオの仕組みがわかってくるのです。

 

生物学の研究にも、全く同じ手法が使われています。

 

ある手法(本書には詳しく書かれているのですが)を用いて、機能を調べたい物質を実験動物から完全に取り除きます。取り除くための手法のことを「ノックアウト」と言います。

 

もし、物質Aをノックアウトしたマウスは癌が多発したとしたら、物質Aは癌を抑える物質だということになります。

 

ラジオの分析の仕方を生物にも応用できる、ということなのです。

 

さて、本書ではマウスの膵臓にあるGP2という物質が舞台となっています。

 

GP2が欠落すると膵臓の機能がめちゃめちゃになる、という予測の元、福岡さんの研究グループは巨額なお金をかけてマウスからGP2をノックアウトしました。

 

以下、本文の引用です。

 

とうとうGP2ノックアウトマウスが生まれてきた。このマウスはそのすべての細胞がES細胞由来であり、すべての細胞でGP2を作り出すことができない。つまりGP2というピースは一分子もこのマウスの内部には存在しない。その結果、このマウスの膵臓細胞ではとてつもない膜の異常が展開しているはずなのだ。

(中略)

・・・注意深く膵臓を摘出した。その膵臓を特別な試薬で固定した後、顕微鏡観察のためのプレパラートを作成した。薄い切片となった膵臓の標本は、薄いピンク色をした透明な花びらのように小さなスライドガラスの上に貼りついていた。

 私はそれを顕微鏡のステージにおき、ダイアルをゆっくり回しながら徐々にフォーカスをあわせていった。ピンク色の視界が像を結んでいく。私は息を止めた・・・

 

この後何が起こるのか。そして、それは何を意味するのか。

 

この続きは福岡さんにあずけようと思います。

 

是非、『生物と無生物のあいだ』を読んでいただきたいのです。

 

2017/6/18 森見万寿夫

ネタが無いという名のネタ

(あれ)

 

 

 

(あれ、あれれれ?)

 

 

 

(おかしいですねぇ)

 

 

 

(もしかして、、、)

 

 

 

(書くことが思い浮かばない...?)

 

 

(はい、)

 

 

(そうです)

 

 

(書くことが思い浮かばないんです)

 

 

(一文字、二文字、三文字、こうやってこうして、、、)

 

 

(今のところ文字数は稼げていますがね)

 

 

(何も思い浮かんでいないのですよ)

 

 

(とにかく、書くことが無くなったのです)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

がばぁっっっ!

 

はぁっ!! 夢だったのか!

 

 

 

何の夢だったか、全く覚えていない

 

でも夢のことなんて、今さら思い出してもしょうがないよな

 

目の前にブログの編集画面があるけど、書くこと、特に用意していなかったわ...

 

おや、今恐ろしいことを、、、

 

なになに、書くことを用意していない?

 

書くことが無い

  

って、冷静に考えてやべぇよ...

 

おい、やべぇよ

 

兄ちゃん、やべぇよ

 

書くことが無いよ

 

兄ちゃん、俺、どうすればいいの?

 

ネタが無いブロガーなんて、ただのオタクだよ

 

やばいよ兄ちゃん...

 

助けてよ...

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

(ここより話者は兄ちゃん)

 

兄です。

 

読者の皆様、お気を付けください。

 

先ほどより弟が言っていることは、すべて虚偽です

 

と申しますか、むしろ「ネタが無い」「書くことが無い」と騒いでいるブロガーを見たら、それらの記述はすべて虚偽です。

 

 

www.hitode-festival.com

 

 

manato-kumagai.hatenablog.jp

 

これら紹介した記事の内容は「ネタが無くなった」と要約しても大きな問題は無いと思います。

 

 しかし、よく考えてみて下さい。

 

ブログの記事は「ネタ」が必要です。

 

確認ではありますが、ここでいう「ネタ」は、お笑い芸人がやるような面白いものだけではなく、単なる「話題」を指します。

 

ネタ=話題」があるからブログ記事を書くのです。

 

これは逆も成り立ちます。

 

ネタ」があってのブログ記事なら、ブログ記事は「ネタ」そのものなのです。

 

ブログ記事それ自体が「ネタ」なのです。

 

それなのに、「ネタが無い」というのは矛盾しているのです。

 

小学生でもわかります。

 

少年A「俺、話すことなくなったわwww」

 

少年B「え? お前、今しゃべったよね?ww 話すことないって言ったよね?ww」

 

少年C「うわぁーっ!! ウソついた~www先生に言っちゃおwww」

 

以上のとおりです。

 

ネタが無い」ことを声高に掲げながら一本記事を書き上げるなど、この上なく悪質ですね。

 

先生に訴えるレベルで悪質です。

 

ネタが無いならおとなしく何も書かずに寝ろ、とこういうわけです。

 

しかし、狡猾な世のブロガーは以下に示すような犯罪を犯してしまう。

 

ネタが無いけど、何とかして記事を書きたい。

 

→「ネタが無いことをネタにすれば記事が書けそうだ!

 

そして、実際には「ネタが無いというネタ」がありながらも、あたかも「ネタが無くてかわいそう」なことをアピールし、アクセス数を稼ごうとするのです。

 

大変悪質です。

 

先生だけじゃなくて、校長先生にもチクっちゃうレベルです。

 

 

 

 

 

 

えと、

 

これ以上書くことが無くなったので

 

 

じゃ、あの、、、

 

 

 

 

2017/6/18 森見ますお(ブーメラン世界チャンピオン)

課題図書はいつもつまらない

『〇〇〇』という本を読み、2000字以上でレポートを書きなさい。

(期限は6月12日までとする)

 

本日は6月11日なり。

 

明日までにブックレポート?

 

え? 本読んですらいないのだが??

 

はい、オワタ―www

 

現在このような状況に直面している。

 

最近の大学生は本を読まなすぎるせめてレポートを書くときくらいは本を読んでほしい、という願いからブックレポートという形にしました

 

レポート課題を出す際、教員が放った言葉だ。

 

森見は激怒した。

 

必ず、かの邪知暴虐の教員を除かねばならぬと決意した。

 

森見は本を読む。森見は大学生である。

 

本を読み、友と酒を飲んで暮らしてきた。

 

けれども、強制読書に対しては、人一倍敏感であった。

 

本日深夜、森見は課題図書を読みだし、表紙をめくり目次をめくり、「はじめに」を読み終わった。

 

森見は言った「呆れた本だ、読むにたえぬ。」

 

森見はともにLINEを飛ばし、教員は何を考えているのか、このようなつまらない本を読ませて何が嬉しいのか、と質問した。

 

友は意味不明なスタンプを送ってくるだけで、答えなかった。

 

しばらく読み進めたが、我慢しきれず老爺にLINEし、今度はもっと語勢を強くして質問した。

 

先輩は既読無視した。

 

森見は追求のスタンプを連打し、質問を重ねた。ついに先輩が漏らした。

 

「その教員は、学生に単位を与えない」

「なぜ単位を与えないのだ」

「本を通読していない、というのだが、みんな通読してからレポートを書いている」

「たくさんの学生を留年させたのか」

「そうだ。はじめに授業を取っていたご自身のお弟子様を、それから、その彼女を、それから、そのお友達を...」

「驚いた。教員は乱心か」

「いや、乱心ではない。学生を、信じることができぬ、というのだ。」

 

これを見て、森見は激怒した「呆れた教員だ、生かしておけぬ」


 

発想も尽き、だんだん息苦しくなってきました。

 

太宰治のような文章は到底書けません。あきらめました。

 

太宰の『走れメロス』を取ってみても、読んでいてすごくテンポが良いです。

 

言葉ひとつひとつの選択が生き生きしていて奇跡的だと世の評論家は口をそろえて絶賛するわけですが、そんな細かいことが分からない僕にとっても、これを読んでいるときの何とも言えないテンポの良さを感じます。

 

初めて読んだのは僕が小学生の時で教科書に載っていました。

 

その時はすさまじく退屈な小説に感じたのですが、おそらくこの理由は「教科書に載っていたから」ということに違いなかったでしょう。

 

小学生の時に読んだ別の太宰の作品は、とても面白く感じましたから。

 

人から強制されると、文章って途端につまらなくなると思いませんか?

 

そんな経験、皆さんにはありませんか?

 

共感してくれる仲間が世界には絶対いる、という確信で書いたんですが、いかがでしょうか...

 

・・・

 

課題図書が全然進んでいないというのに、書き始めて1時間が経ちます。

 

もし何年後かにその本を自分で手に取っていたら、面白く感じるはずです。

 

今のところ本当につまらない。

 

いや、まだ分かりませんね。読み進めると面白くなるかもしれないですし。

 

もし面白かったら、このブログで紹介いたします。

 

さて、本日は徹夜です。邪知暴虐の教員よ...

 

太宰治 走れメロス

 

2017/6/11 森見ますお

「大丈夫」と「しっかり」の違い

この本に載っている課題をこなすことは非常に骨の折れることなのですが、その引き換えと言っても良いのか、読み応えのある記事が出来上がるように思います。

 

 

vagusnerve.hatenablog.com

 

前回『日本語練習帳』を扱ったのは1週間も前のことで、ずいぶん長く逃避をしていたな、と思う次第です。

 

さてと今回は、「大丈夫」と「しっかり」の違いに関する考察です。

 

「大丈夫」なモノ、「しっかり」しているモノ

あるサッカーチームに後藤という選手がいたとします。

 

後藤は素行が悪く、「不良」と言われています。

 

サッカーに関してはフォームが独特でへんてこりん。

 

しかし、後藤はPKだけは上手いんです。

 

で、ある時試合で、チームがPKのチャンスを獲得したとしましょう。

 

蹴るのは後藤です。

 

その時チームメイトはこう思うはずです。

 

「後藤なら大丈夫」

 

しかし、チームメイトは決して

 

「後藤はしっかりしている」とは考えないでしょう。

 

普段から行いが悪く、フォームもおかしい人が「しっかりしている」筈がありません。

 

考察をします

PKは大丈夫だがしっかりしていない後藤を例に考えました。

 

これをふまえ、「大丈夫」と「しっかり」は何が違うのでしょうか?

 

まず、チームメイトが「PKに関しては、後藤なら大丈夫」と思った背景には、「PKに関しては後藤なら心配ない」とか「PKに関しては後藤に任せても安心」とか、そういった意図が含まれていると思われます。

 

「大丈夫」という言葉には「心配ない」とか「安心である」といった要素がありそうです。

 

対象物を見て、受け手が「心配ない」とか「安心だ」と思うことが大事なのです。

 

確かに、好きな女の子がPCを前に困っていたら、

 

「僕に任せれば大丈夫だから」

 

と言うと思うのですが、この時僕はその女の子に

 

「自分はあなたの心配を取り除き安心できる存在ですよ」ということをアピールしていることになります。

 

受け手である女の子がそれを認めてくれたら勝ちなのです!

 

一方、「後藤はしっかりしていない」とチームメイトが思った理由には、後藤の普段の性質が芳しくないからでしょう。

 

「しっかり」という言葉は、「対象物の性質が確かかどうか」という意味を含むように思います。

 

「しっかり」しているかどうかというのは、対象物にもともと備わっている性質に基づいて判断されるのです。

 

受け手の気持ちに関わる「大丈夫」とは全く角度の違う言葉なのです。

 

まとめ

「大丈夫」という言葉は「心配ない」とか「安心である」といった受け手の気持ちに関わるのに対して、「しっかり」という言葉は対象物の性質が確かであることを指すという点で、まったく視点の違う言葉だという結論に達しました。

 

果たしてこの文章はしっかりしていたのでしょうか?

 

僕なら大丈夫。

 

ん?

 

では^^

 

2017/6/11 森見ますお